パレットを壊さないで


『ボクを愛しているふりをしろ』

 その言葉に無性に腹が立った。私を娼婦だとでも思っているのか。拳を握る力が強まったが唇を噛んで耐えた。この状況から逃れるための道は一つしかない。ほんの少し我慢して芝居すればい。表向きは平然を保っていても怒りや悲しみや色んな感情で満たされた頭の中はぐちゃぐちゃだ、訳がわからない。生い茂った草むらの中に迷い込んだかのようだ。前へ進もうとしても雑草が道を隔て、後ろに下がろうとすれば薔薇の棘が皮膚を破る。身動きができず、息苦しいこの状況に脳が廃れてしまいそうだった。しかし熱く重なり合う唇の先で思い浮かべる男は一人、それが私の首をこれでもかと締める。

「離して…!」

 盛ったヒソカに地面に縫い付けられた時この馬鹿げた行為も過ちであったのかもしれないと思ったのだ。両肩を押さえ込まれ、下半身に感じる男の重みでずっと下の方まで沈んでいってしまいそうだった。暗闇で底光りする瞳は獲物を目の前にした獣のように恐ろしかった。舌なめずりするかのように自身の唇を舐めて笑ったヒソカの頬を勢いよく引っ叩いたのは防衛本能だったのだろう、そんなことをすればもっとこの男を喜ばせてしまうことは分かっていたのに。驚愕したように瞬きしたヒソカは先ほど以上に目を細め唇を吊り上げる。

「あぁ……イイねぇ…」

 服の隙間から冷気が入り込んで背中に昇っていくような気味の悪さだった。黒目をギョロギョロと動かして何かを必死に堪えるように喉の奥を鳴らす男とさっきまでしていた事を思い出しては吐き気がした。緩んだヒソカの腕を払い巨体を押しのけて立ち上がる、真っ先に窓辺へと向かい淵へと足を掛けた。下に目線を向けそうになったが恐怖を加速させるだけなので止めた。躊躇なく隣のビルへと飛び映って力の限り走った。雨水で濡れたせいか、汗かわからないもので服がぐっしょりと濡れていて不快だったが止まらなかった、後ろを振り向くこともなかった。あの男はどうせ追ってはこない、律儀に約束は果たす奴だと知っているからだ。それでも速さを落とさなかった。止まりたくなかった。

 ヨークシンの中心まで戻ってきた事に安心してようやく足を止めた瞬間、体が宙に浮いた。驚いて目を見開いた先に見えた長い黒髪と見慣れた足元、息を吐くよりも早く腹に回っていた手に自分の手を自然に重ねていた。

「都心嫌いのくせになんでここに?オークションなんて興味ないって言ってたよね。まさか親父に呼ばれたの?」

 ぐんぐんとビルを登って屋上へとたどり着いたと同時に地面に落とされる。その衝撃のせいか走り続けたせいか身体の節々が痛い、手足も鉛のように重い、そのまま地面に倒れ込んでいれば痺れを切らしたイルミの不機嫌そうな顔がこちらを覗いていた。背景には漆黒の夜空が浮かび上がっている。この街は夜でも明るい、星なんて見えない、私が住んでいる街とは全然違う。私はここまで来て、何を得たかったのだろうか。空虚な時間が生まれると不意に喉元からヒュッと空気が通り抜けていく、堪らず口を結んだが顔がぐしゃりと歪んだ。

「ひどい顔だね」

 冷たい夜風と共に舞うイルミの黒髪、その隙間から見える彼の目はいつもとは少し違って見えた。イルミは私が口を開く事を待っているが、少しでも声を発してしまったらいろんな感情が吹き出してしまいそうだった。痛い、体も心も、全部が痛い。喉の奥に痰が絡んでいるようにモヤモヤとしたものが渦巻いていて、呼吸をすることが精一杯だ。

「…ま、どうでもいいや。俺はこれから頼まれた仕事に行ってくるからそこにいてよね」

 冷たくて硬いコンクリートの上で待っていろというのか。しかし反論する気力も既にない。

「そんなに時間はかからないと思うから、終わったら一緒に帰ろう」

 その言葉と同時にイルミは屋上から飛び降りた。『一緒に帰ろう』だなんてあのイルミが口にするとは思わなかった。たとえそこが大嫌いな場所であっても、なぜだか彼の声は柔らかく聞こえたのだ。ぎゅっと瞼を閉じて手の甲で目尻を何度も擦る。きっとまたイルミにひどい顔だと言われるのだろう。



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