海の血潮


 黒塗りのミニクーパーの助手席から首を捻らせて後ろを見てみれば通ってきた道に砂埃が立っている。その向こうに見えるのは段々と離れていく大きな時計塔。朝食を終え『観光しよう』とクロロに車に乗せられて近くの街を一緒に彷徨いていた。観光名所である中心街に聳え立つ時計塔は下から見上げれば鳥肌が立つほど威厳を感じた。火事を避けるため木材の利用を禁じられた戦争時の建物がそのまま残っているのだ、石造の建物を見ながら街を彷徨いてみると色々感じるものがある。隣の男の存在が気にならないほどずっと行ってみたかった地に引き込まれた。後ろを眺めていた私が名残惜しそうに見えたのかハンドルを握っているクロロは「もう少し街にいたかったか?」と戻る気もないくせに問いかける。

「もう大丈夫、十分見たよ」
「そうか、なら夕日を見にいこう」

 クロロが車を停めたのは岬の前だった。厳密にいえば断崖のある海岸、地元民に愛される場所だと聞く。車を出て崖の先まで歩いていけば真っ赤な夕日が地平線に溶けていこうとしていた。一面に広がる海に夕日、胸を揺さぶられ圧倒させる景色だ。

「せっかくだから下に降りよう」

 クロロが私の手を引いたのもこの景色のせいかどこか自然に感じる。彼は私にいろんなことを問いかけてきた。何が好きだとか趣味とか過去にどんな恋愛をしてきたとか、彼にとって有益な情報とは考えにくい物ばかりだ。しかしこの男の前だとペラペラ自分のことを喋っていることにようやく気がついた。大抵は聞き手のはずなのに。クロロは私という人間の深いところを炙り出そうとしているのではないか。なぜこんなことを聞くのか問えば「興味があるから」と溶けてしまいそうな微笑を浮かべるのだ。

 干潮のせいで随分と先の方まで歩いて来れた。歩くたびにピチャピチャと水と砂がサンダルの裏に引っ付いてくる。前を歩いていたクロロの髪が黄金色に染まっていて綺麗だ。ようやく歩きを止めた彼が振り返れば私をまっすぐに見つめた。なんという視線だろう、率直な視線が四肢の力をもぎ取っていけば胸の中に妙な感覚だけが残っているのだ。

「このままここにいたら戻れなくなってしまうよ。それとも私を溺死させたいの?」

 じきに満潮になって波が押し寄せる。辿ってきた道がなくなって帰る術を無くす。クロロは目を細めて「そうかもな」と静かに笑った。

「もう戻れないことを分かってるんだろ?」

 逃げようと思えばあの時のように逃げられたはずだ。こんな時人間の本能というものが本当に恐ろしく感じるのだ。魚や動物は意思に関係なく本能的に互いになるだろう、それと同じでこの男に手を握られれば激しく心が震える。この男の視線は研ぎ澄まされた鋼の針のように胸を一直線に差し抜き、それは背中まで深々と突き抜けそうな威力を持っている。

「私は盗賊にはなれないよ」
「別にそんなこと求めてないさ」

 クロロの指が私の手の甲をゆっくりと撫でる度に心臓が痺れる。彼が私に何を求めているのかなんて知らないし、知りたくもない。多分彼自身も理解し切ってないような気がする。

「毎回、もう一度会いたいと思う。それが積み重なって、大きくなった先は俺でも分からない。それでも会いたいとお前は俺に思わせる」

 クロロが風で靡いた髪をぐしゃりとかき上げた。私の指先はまるで自分が彼の髪を触ったかのように繊細な毛流れを感じて痺れて熱くなる。彼の視線は率直だが、言葉は曖昧な気がする。しかし何十年経っても疼くような熱を体に残すのだ。昔はもっと単純に物事を考えて好きになったらそれしか見えない女であったが、今は細胞が作り替えられてしまったように変容してしまった。

 クロロに引き寄せられて顎先に指が触れれば波の音が鮮明に鼓膜を揺らしているようだ。長い睫毛が触れるたびに皮膚が繊細に感覚を感じ取ろうとしている。流れるように重なった唇が呼吸するように彼を求めていた。

 ゆっくりと地平線に沈んでいく夕日に息を呑むように、窓から眺める星に孤独を感じるように、今みたいな彼の本音が垣間見える度に少しずつ心を攫われていくのかもしれない。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -