欠けた牙で威嚇して




「ナマエさん、今日非番じゃありませんでした?」
「そうなんだけど、おじいちゃんに呼び出されちゃって…」
「おじいちゃん?」
「楽巖寺学長だよ」

 補助監督の同僚の男は分かりやすく青ざめてから「ナマエさんお孫さんとかだったりします?」と声を顰めて話すので笑いながら首を振った。

「まさか。ちょっとお世話になった事があってね、こうやって非番なのに呼び出されるし面倒な間柄なんだよね」

 今日は京都姉妹校交流会のため忙しない気配をたくさん感じる。悟くんは学長と関わりがある私を会わせないために今日は絶対に休めと煩かった。そのため休みの希望を出していたが直で呼び出されたら会いに行かないわけにはいかない。後で悟くんの機嫌が悪くなるのは目に見えているので彼には何も言わずにここにいるが。

「面倒な間柄って一体なんで」

 同僚の言葉が言い終わらないうちに彼の頭が遠くに飛んでいった。血飛沫が上がる前にオーラを纏おうとしたがタイミング悪く胃から込み上げた吐き気に思わず口を手で覆う。気を取られた数秒の間、既に肩に筋肉質な腕が回り込んでいた。胸がざわめき、額に汗が流れる。

「いるかな、って思ってたら本当にいたね」

 耳元で優しく囁くように響いた声、確か真人とかいう呪霊だった。なんでこいつが高専の敷地内にいるんだと考える暇もない、一瞬の隙を作ったのが命取りだった。視線の先で竹林を覆う大きな帳が見えて、唇を噛み締める。

「あれ?確かに前は呪いが中にあったんだけど……残念だなあ、パンドラの箱みたいで面白かったのに」

 ――まずい、こいつに触られると

 残念そうに真人が目を細めた瞬間、ぐらりと視界が揺らいだ。

 ***
 
 そろそろ悟くんが帰ってくる時間だと思って食事の準備をしていたらインターホンが鳴った。悟くんは自分で鍵を開けて入ってくるから宅配かと思ったが、画面を見れば玄関の前に立つのは紛れもなく悟くんだ。何やら買い物袋をたくさん持っていて「手使えないから開けて」とご機嫌な顔で笑っている。

「たっだいまー!」
「おかえり、その荷物どうしたの?」

 返事もしないでニヤニヤしながら彼は改装中の子供部屋に足を進めて荷物を置いていく。まさかと思ったが袋をよく見てみるとベビーアパレルブランドのロゴが刻んであった。最近私がスマホで調べていたちょっとお高めだけど生地や素材、デザインにこだわりのあるブランドだったのだ。誰かから聞いたのか、もしくは勝手にスマホを盗み見たのか、悟くんに知られたくなかったのはこうなることが予想できたからだ。まだ性別が確定しているわけではないから洋服を買うのはもうちょっと待とうね、って話したばかりなのに。

「悟くん、性別が分かるまで買わないんじゃなかったの」
「だってナマエが男の子って言ったんだよ?」

 重めの声色で問いただせば予想外の言葉が返ってきた。

「あれ、私のこと信じるの?」
「当たり前でしょ、何言ってんの」

 床に座り込んで「この最強って書いてあるロンパース見てみてよ、僕の子に相応しいよね、刺繍入れてもらっちゃった」と嬉しそうに包みを開け出す彼の背中にもたれて、首に手を回せば心地よい体温が伝わってくる。部屋を一巡すれば改装中だというのにこの部屋は物で溢れかえっているのが見て取れる。夜蛾学長から貰う可愛らしいぬいぐるみは毎月毎に増えていく、七海さんから貰った水彩画が綺麗な海外の絵本集、伊地知さんからの赤ちゃんに優しいベビー用洗剤やオーガニック用品、補助監督の同僚達からのオムツタワー、生徒達からの安産祈願の大きなお守りと赤ちゃん用のサングラス。みんなに見守られてこの子は生まれ、これから生きていくのだと思うと胸の中でじわじわと暖かい感情が滲んでいく。

「どう?可愛い?嬉しい?」
「うん、嬉しい、ありがとう」

 ぎゅっと彼を抱きしめて首に顔を埋めれば「前から抱きしめたい」とあっという間に膝の上に座らされる。前から優しく抱きしめられれば体は安堵感で満たされて筋肉が解けていくように力が抜ける。

「ねえ、そろそろ育休取ろうよ、お願い」
「まだお腹も大きくないのに、心配性だなあ、悟くん」
「そりゃあそうでしょ、心配だよ、ものすごくね。なんで伝わらないのかなあ、頑固な奥さんで参っちゃうよ」

 悟くんはわざとらしく大きなため息を吐き出して、肩を竦める。わかってるよ、伝わっているよ、苦しいほどにね。時々幸せすぎて、窒息してしまうんじゃないかと思うぐらい喉の奥が苦しくなってここは現実なのかなって気がする時がある。彼は私をこの平穏な日々の中に置いておきたいのだ、なるべく切り離して、夢のように笑っていられる世界に。

『大事なものがあっという間にゴミへと変わる』

 それでも血腥い現実から私は逃げたくはないのだ。悟くんだけこの場所に置いて行ったりなんかしない。その大きな背中を守るのも、この小さな命も守るのも、私だ。

 ***

 身体が揺れている、微かに開いた視界の先も揺れている。どうやら誰かに担がれているようだ。ここはどこだろう。頭も身体も鉛のように重い。

「もう起きたんだ?おかしいな、人間だったら3日間は起きない量の毒をぶち込んだと思うんだけど」 

 ここは洞窟かそれとも地下か、薄暗くて真人の声が反響して聞こえる。頭の裏側からズキズキと抉られているような痛みに顔を歪める。口の中が乾いているのに喉は焼けるように熱い。全身がひどく気怠く、垂れ下がった手足をピクピクと動かすのが精一杯。気を抜けば重たい瞼が再び落ちてきそうだ、乾燥してパサつく唇を噛んで意識を繋げようとしていた。

「この細い手でたくさんの人間を殺してきたんだね、なのに呪術師と仲良くしちゃって…人ってそう簡単に変われるのかな?それとも償いのつもり?まさかそんなことで許されるなんて思ってる?」

 本当によく喋るガキだな。声色は明るいというのに、言葉は脳を切り裂きそうなほど鋭い。

「……思ってるわけないよ、呪霊がわかったような口を聞かないで」

 真人の骨張った手が私の手を握りしめて、指先を撫でつける。人間の真似事でもしているのか、その手を切り裂いてやりたかったが今はまだできない。
 私の罪が許されるなんて思ってない、でもだからといって死ぬつもりはない。一生抱えて生きることに意味があると思っている。死んだら地獄行きなんだよ、そんなのはもう覚悟の上だ。なら今できることをしないと、残せるものを、愛せるうちに。

「俺はさ、君のこと気に入ってたんだよ。クソデカい呪いを持っていたし人間のくせに俺達みたいな狂気を感じた。でも君の中に呪いはもうないし…君自身の呪力はクズ、興醒めだよ」
「じゃあなんで殺さないの」
「俺は弱い奴に興味なんてないけど……君の中のもう一つの魂を呪いにしたら五条悟はどんな顔するかなあ」

 ドクリ、と心臓が痛いぐらいに大きく跳ねて、全身から嫌な汗が滲み出る。
 
「君たち結婚したんだろ、おめでとう!お祝いに君たちの子供を呪いにしようかなって思ってたんだ。俺と同じで人間の腹から生まれる呪いだよ、ゾクゾクするよね。もちろん生まれるまで君の面倒はちゃんと見てあげるし我儘だって聞いてあげる。その子が生まれてからは選ばせてあげる。自分で我が子を殺すか、それとも我が子に殺されるか…最高のお祝いになるね」

 興奮しきった目で真人は大きく口を開けて笑う。腹から笑いが込み上げてどうしようもなく楽しい、と嘲笑している。肩や指先が震えて、全身が熱くなるのを感じた。担ぎ上げていた私を横抱きにすると真人に優しく抱きしめられる。宥めるように背中を摩られて、耳元に寄せられた唇から囁くような声が鼓膜を揺らした。

「どうしたの?怖い?君は喜ぶべきだよ…呪いを孕むなんてこの上ない喜びだって泣いて喜べよ」

 震えた唇から堪えられなくなった笑いが溢れて、次第に大きなものになった。喉をひくつかせて彼の腕の中で笑っていれば、真人は少し目を丸くして「もしかして、壊れた?」と首を傾げる。息を吸い込んで込み上げる笑に区切りをつけた。

「恐れるのはお前の方だ」

 体を纏っているオーラはこの男には見えないだろうが、呪力を混ぜた龍頭戯画は別だ。真人が能弁を垂れている間にオーラを練って顕現させていた光の龍が渦を巻くように私たちを囲んで、真人に牙を剥いた。

「式神?いや、違うな…呪力はクズなのに術式みたいなものが使えるのか!」

 龍が迫ってくるというのに嬉しそうに顔をぐにゃりと歪める様は確かに同類と言っても否めない。こんなクソガキと同じなんて反吐が出そうだが。龍頭戯画が押し寄せて、激しい衝撃と突風に呑まれたかと思えば私は既に龍の上にいた。「ありがとう」鱗を撫でれば嬉しそうに擦り寄ってくる。この念能力、龍頭戯画は私の一部であり、お爺ちゃんの遺産でもある。多分まだお爺ちゃんは死んでいないと思うけれど、生涯現役と服に括り付けられた文字が懐かしい。

「毒も大して効かないし、身体能力も飛び抜けている、おまけに術式のような能力!教えてよ、君は一体何者なんだ」

 体の半分をもぎ取られた真人は痛みに震えていたわけではない、好奇心で溢れかえった顔で私を見上げていた。流石にその光景には背筋が凍りついたが、彼の後ろに一点の光が見えた気がして、ふっと頬を緩める。

「念能力者だよ」

 真っ暗な洞窟の中で、微かな光を求めてひたすらに飛び進んだ。小さな光はやがて大きくなり眩しさで目を眇めた瞬間、全身が光に包まれた。

 一気に気温が増したのは太陽に近い空中を浮遊しているからだ、真下に見える建物はよく知っている高専だったのだ。一体あの空間はなんだったのかと周りを一巡したが、さっきの空間に繋がる道はないように見える。追手の気配もないので大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出した。

「体鈍ってる、こんなんじゃお爺ちゃんに怒られる」

 いくら毒に体が慣れてきてもすぐに全開では戦えない、以前の私だったら構うことなく突っかかっていただろう。そうできないのは守るものが増えたからだ。
 ――このこと悟くんには死んでも言えない
 きっと彼が知ったら今すぐ育休を取らざる終えない。しかしタイミングが良いのか悪いのか、ポケットのスマホが振動した。画面に映し出される五条悟の名前に眉を寄せながらも通話ボタンを押した。『あ、もしもしナマエ?今何してる?今日は帰るの遅くなるかもしれないんだ』と電話口で聞こえた声に体の内側から安堵感が押し寄せた。彼からの電話は仕事中であろうがしょっちゅうかかってくる。「今どこ?」「近くならお昼一緒に食べようよ」「今日早く終わったからそっちいってもいい?」と急用じゃないことがほとんどだけど、それが少し嬉しかったりする。

 ***

「な、なんだあれは!」
「五条先生、なんか龍が飛んでんだけど!」
「は?龍?」
「なんかドラゴンボールみたい…願い事叶えてくれんのかな」

 帳を打ち破り、高専内の敵を一掃したというのにまた新手か。悠仁と葵が見上げる先、高専の上空を漂っていたのは金色の光の尾を引く龍、確かに龍のように見えるが、光の塊のようにも見える。だが呪力はほんの少ししか感じない、そしてこの呪力の流れに見覚えがあった。

「先生、今電話してる場合?ちゃちゃっと倒してきてよ」
「まぁちょっと待ってよ、一応確認ね。あ、もしもしナマエ?」
「確認?ってナマエさんに電話かよ!」

 電話越しの彼女の声はいつもより少し枯れている、それを悟られないように声色は明るい。やっぱり何かあった。でないと彼女が念能力をこんなに大胆に晒すことはない。僕さえ見たことがなかったのだから。

「今何してる?今日は帰るの遅くなるかもしれないんだ」
『家でテレビ見てる。そうなんだ、わかった』
「ふうん、テレビねえ。嘘つくんだ、ナマエ」
「ゲッ……悟くん」

 一瞬で彼女が漂っている上空に飛んで目の前に現れてみれば、彼女は顔を引き攣らせスマホを危うく落としかけた。服は補助監督用の黒いスーツを着ているし、休みだと言っていたのも嘘か。非常に面白くない。先程の襲撃で補助監督や呪術師が何人か殺されているのだ。もし彼女が敵の襲撃を受けてこの状況になっていたらと考えるだけで自分を見失いそうだ。
 彼女は元からどれほど危険な事に巻き込まれようが顔色を変えないし、肉を抉られようとも痛くも痒くもないから平気だと泣き叫ぶこともない。しかし心の内側に触れられた時だけ子供のように泣く。肩を震わせてボロボロと涙を零す。もし、誰かが彼女の心の内に触れることがあったら。もし、彼女とお腹の子供が危険な目にあったら。体の内側から沸点を通り越して煮え立つ感情が今にも溢れかえりそうで、握った拳が震えた。

「俺がどんな思いでいるか、少しは分かれよ」

 ***
 
 彼の目を直接見てないというのにヒシヒシと怒りが伝わってくるのは普段より数段低く厚みを帯びた声と、変化した一人称のせいだ。完全にキレてる。いつもヘラヘラしているせいでその変化が格別恐ろしく感じる。ここで嘘をついたら状況はさらに悪化するだろう。やむ終えなく先程の経緯を簡単に話した。しかしそれだけで済むと思うなと言わんばかりに悟くんは「明日から出勤禁止」と言い放つ。

「流石にそれは皆に迷惑だよ、ただでさえ人手不足なのに」
「迷惑?死んで呪いになるよりマシだろ。本当は結界の中に監禁でもしておきたいぐらいだ」
「……フェアじゃないよね。あなたは危険と隣り合わせで私は家でおとなしくしてろって?」
「フェアとかそういう問題じゃないんだよ。いい加減分かれよ、僕は最強だけどナマエは違う。危険なんだよ、この世界は」

 その言葉にピクリと片眉が動いた。悟くんは私が別の世界から来たことを知っているが、私がどんな世界で、どんな生活をしてきたか知らないだろう。血腥い世界でどれだけの事を求められて、生きてきたか。

「……私が弱いって言いたいわけ?言っておくけど私は高専の学生みたいに学校に通った事もない。家で人を殺す教育ばかりさせられた。友達は必要ない、仕事仲間はギブアンドテイクの関係。優先するのは自分」

 違う、そうじゃない。本当はわかっている、彼の気持ちが、感情の根源が。

「自分の命を守ることだけを考えて生きてきたよ、でも、でも……私は、悟くんを、貴方の生徒達を守りたいと今は強く思う。もう自分だけ残る選択肢なんてしたくない、分からずやなのは悟くんの方だ!」

 心ない言葉を叫んでしまって一気に罪悪感に押し潰されそうになった。今更言い訳なんてできない。視線を合わせていられなくてギュッと力を込めた自分の拳を見つめる。ごめん、違うの、悟くんの気持ちはよく分かってるんだよ。そう言いたいのに何故だが声が出ない。しかし龍頭戯画の背に降りてきた彼の手が私の拳を覆って、薬指の指輪をそっと撫でる。その優しい手つきに結婚する前に彼が言った言葉を思い出した。

『僕と結婚することで、もっと危険になる。結婚しなくても一緒にいられる道もある、それでもこの指輪で君を縛り付けておきたいのは僕のワガママだよ』

 彼は得ようと思えばいくらでも得られるし、好きにできるだろう、悲しみなんて、孤独なんて存在しないのではないか。でも暴かれた瞳の奥が揺らいで見えるのは、何故だろう。

『僕のせいでナマエを危険に晒すっていうのにさ、こんな自分が時々……嫌になるよ』

 周りが足掻いたって追いつけないほどの力を持って、最強の悟くんには何が見えているんだろう。すごく大きな湖の中でぽつんと浮かんでいるボートの上に彼はいるんじゃないか、彼の心が乾き切ってしまって、異物のように孤独という塊が大きくなってしまうのが怖かった。 

「私は悟くんの妻だよ。だから悟くんを守るのも、支えるのも私がやるの、私しかできないの。怖くないよ、怖いことなんて何もないって悟くんが言ったんだよ」

 彼の唇がうっすらと開いて瞠目していたかと思うと目を覆うようにして笑った。なんだか吹っ切れたように腹から笑っているように見えたのだ。

「本当に手強い。そりゃあそうだよね、この僕が惚れたんだからさ」 

 彼の腕の中に引き寄せられれば気持ちの肩を預けているような安心感に包まれて心地が良い。私も彼も同じ、この心地の良さを失いたくなんてないのだ。私達は互いの命綱にならなければならない。

「悟くんの機嫌が良くなったのにすごく言いにくいんだけど」
「ん?」
「おじいちゃんに会いに行かなくちゃ」
「……却下」

 ***

 和室の一室で楽巖寺学長と歌姫が話し合っていた時、襖の向こうから「失礼します」と若い女の声がした。補助監督だろう、今学長と大事な話をしている真っ最中だ、歌姫が「後にして」と声を放とうとしたが学長が右手を上げて静止する。

「ナマエ、遅い。待ちくたびれたぞ」

 待ちくたびれたと言いながらも嬉しそうな声色が歌姫には伝わった。この名前、どこかで聞いたことがある。声と同時に襖を開けた先にいたのはやはり補助監督の服を着た女だった。こんな補助がいただろうか。続けて部屋に入ってきたデカイ男に思考は掻き消される
 ――五条が何の用だよ…

「五条の小僧と籍を入れることを許した覚えはない」
「おじいちゃんの許可なんて求めてないっつの」
「こら、悟くん口が悪いよ。ごめんね、おじいちゃん勝手なことして…」

 ――籍を入れたあ?!

 あの五条悟が結婚したらしいという噂を耳にした事があるが、こんな野郎と結婚する馬鹿がいるわけがない。いたとしたらとんだ能無しだ、と歌姫は思っていたがどうやらその噂は本当だったらしい。驚きを隠せないまま刮目していれば不意に女と目が合った。

「挨拶が遅れてすみません、補助監督のナマエです。よろしくお願いします、歌姫さん」
「あっ、こちらこそよろしく……」

 にこり、と微笑まれれば胸の奥がドクリと鼓動を大きく打つ。黒い髪に黒い瞳、透けてしまいそうなほど白く透明感が溢れる肌、真っ直ぐに伸びた背筋や指先までもしなやか。どこからどう見ても美人な女で、いかにも五条好み。同性の歌姫でも不意打ちを食らったような微笑みだった。

「こんな奴と一緒になるために戸籍を作ってやったわけではないぞ、ナマエ」
「この老ぼれそろそろシバいていい?」
「悟くん!静かにして!茶々入れるなら部屋から出て行ってよ」
「フン。さっさと出て行け小僧め」

 五条は大きく舌打ちしたがそれ以上突っかかるような言動をしなくなった。それに歌姫は大きな衝撃を受けたのだ。

 ――あの五条を手懐けてる?

 ただの補助監督が学長と親しい時点でおかしいのだ、それに加えてこの五条と籍を入れ黙らせているんだからこの女は只者ではない。一見美人なだけの補助監督に見えるが、何かを持っているのだと歌姫は確信したがイマイチその何かが分からない。彼女に関して知らない事が多すぎるのだ。戸籍を作ったとは一体どういう事なんだ。

「でもね、おじいちゃん子供ができたの。だからこの子のためにも身は固めておかないと」
「なんだと!このクソガキめえ……わしのナマエを孕ませよって!」
「そこは喜んでくれないとナマエが悲しむよ?いいの?あーあ、可愛がってた子を泣かせちゃうなんて」
「ぐっ……もういい。詳しいことは改めてナマエから聞く、明日また来い、一人でな」
「うん、分かった」

 この場に五条がいるのでやはり話が進まないと判断したのか彼女は五条を引っ張って早々に部屋を出て行った。「ナマエっておじいちゃんキラー確定」「私のお爺ちゃんとなんか似てるんだよねえ」何やら声が聞こえていたがすぐにそれは遠のいて行った。
 
「あの方何者なんです?」
「ナマエに関して詳しくは言えん。上とそういう決まりだ。だがあやつはこの呪術界の切り札になる」
「切り札…ですか」

 それは相当重要な役を背負っているのではないか。補助監督などやらせておいていいのか。加えてあの五条との子供を孕んでいるというのに。

「これを上に報告するわしの身にもなって欲しいのぅ」
「…あの五条が父親なんぞできると思えません」
「それは同意見だが……あやつらのガキは、革命児になるだろうな」

 そこまで学長に言わせる確信はなんなのか。しかし歌姫の頭の中である一つの記憶が蘇る。満ちた月を背景に艶やかな黒髪が舞い、闇から這い出たように冷ややかで底知れない強さを持った美しい女の話を聞いたことがあったのだ。

「もしかしてあの方、海外にいたっていう…」
「おお、そうそう。ああ見えてナマエは昔荒っぽくてな、九十九由基を瀕死にさせた事がある。ナマエに『サシで闘ろう』と言われたら死ぬ覚悟をせんといかんぞ」

 咽せるほどの衝撃を受けて歌姫は息を荒くした。それが本当なら相当ヤバい奴を呪術界の補助監督に置いている。そしてその獰猛さをひた隠してあの微笑みを向けられたかと思うと全身が総毛立つ。その事実を知っているだけでも歌姫の背筋に嫌な汗が流れていった。

 ***
 
 ちょうどお風呂から上がってきたばかりの悟くんはソファに座っていた私の太ももに頭を乗せてお腹に擦り寄るような体勢をとる。体は暖かいけれど頭は意外に重いのだ。この体勢が最近の彼のお気に入りらしいけど、まだお腹が出てきてるわけでもないから分からないだろうに、でもそんなこと関係なく彼はこうするのが好きなんだろうな。それにまだ少し髪が濡れてるじゃないか、近くにあったタオルを引っ張ってゴシゴシと少し乱暴に髪を拭いてやる。「もっと優しくしてよ」と生意気な声が聞こえたが聞こえないふりをした。私のパジャマが濡れることは避けたいのだ。

「そういえばおじいちゃんはどうだった?何か嫌なこと言われた?」
「あの人私にはすごく優しいんだよ。体を心配してくれたよ、補助監督じゃなくて内部の事務に異動させようかって」
「それは僕も賛成だけど、どうせ断ったんでしょ」
「うん、補助監督は続けるよ」

 これ以上言っても無駄だと思ったのか、悟くんは仕方なさそうに息を吐き出した。慰めるように彼の頬に手を滑らせて、唇にキスを落とせば何度もゆったり触れ合う。離れようとすれば阻むように伸びてきた手が頭の後ろをガッチリと抑えてキスは深くなっていく。次第に片方の手が体のラインをなぞるように動くので、悟くんの唇を噛めば「いッ…!」と珍しく身悶えする声が響いた。

 ***
 
 野球が開始される前、グラウンドで体を動かしている生徒達に混ざってキャッチボールをしている補助監督の姿があった。「ナマエさん肩使って投げないと」助言を受けていたが球すら投げたことがないのか、女が投げた球は正面の虎杖悠仁に到達する前に地面に墜落した。この場に補助監督の服を着た人物がいるのは目立つ、京都校の視線が彼女に向いた。

「もしかしてあれが例の?綺麗で優しそうな方に見えますけど」
「……ああいう女が一番厄介な気はするけどね」
「とにかく、俺たちは言われた通りにするだけだ」

 歌姫が京都校の生徒達に指示したことがある。それは補助監督ナマエという謎の存在についてだった。呪術師でもなく、ただの補助監督でもない。上が重宝していて、楽巖寺学長が孫のように可愛がっている女の話だった。あの五条悟と結婚したことだけでも目立つというのに、彼女の強さは計り知れないほど危険だと歌姫は話した。

『補助監督のナマエには細心の注意を払うこと。間違えても喧嘩をふっかけたり、機嫌を損ねたりしないこと。もし『サシで闘ろう』と言われた時は立ち向かわず逃げることだけに専念すること』

 まるで勝てない敵の回避方法を教わっているみたいだった。

「でも一応補助監督なんだし、味方なんでしょ?そんなに沸点低いわけ?」
「学長から聞く限りでは、昔は相当荒れてたって。女も子供も見境なかったらしい」
「ヤバい人じゃないですか…」
「あの空飛んでた龍もあの人の術式っぽい」

 しかし歌姫の言ったことなどお構いなしにナマエの前で仁王立ちしている男がいた。「どんな女が好みだ?」とお決まりの台詞で葵は問いかける。あの野郎人の話を全然聞いてない、と京都高の全員が顔をひくつかせたのと同時に東京高側生徒もゴクリと息を呑んだ。

「んー…なんか前にも聞かれた気がするな」

 少し視線を仰いだナマエは真剣に考えているのかいないのか、暫くして唇を吊り上げると挑戦的な笑を浮かべて「従順な女かな」と呟くように言った。
 それが悪かった。東堂はカッと目を見開いて「退屈だよ」と一蹴した瞬間、その大きな拳を振りかざした。

「東堂やめろ!」

 悠仁が叫んだ瞬間、既に東堂は地面に転がっていた。彼女はその場から一切動いてない。微かな動きさえ 、この場の誰一人も見えていなかった。恐ろしく早いのか、それとも本当に動かず東堂を転がしたのか詳細は不明。

「ごめん、痛かった?野球できそう?」
「あの龍使いの女だろう……なんで補助監督なんてやっている」
「最初は気まぐれだったかな」

 彼女の『気まぐれ』その言葉が何より恐ろしいと思ったのは京都校の生徒だけではない。東堂は地面に体を打ちつけただけで済んでいるが、気まぐれで殺されかけることもあるということだ。何よりあの歌姫があれほど顔色を青くしながら話していたのだ。関わるべきではない。
「悟くんが来るよ、みんな野球頑張ってね」
 その数秒後に五条悟が監督を意識した格好でグラウンドに足を踏み入れたが、その場は静まり返っていた。

「あれ、何この空気。活気なくない?」
「お前の女房のせいだ」
「ええ?ひどい、真希ちゃん。なんか最近生徒の視線が痛い、やっぱり悟くんのせいだ」
「絶対僕のせいだけじゃないと思うんだけど」




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