星を孕む




 微睡の中で声がした。私を呼び戻そうとする声は鼓膜を揺らして血液と同じように体を巡っていく。人を嘲笑するような喋り方だけど、深みがあって、乾き切った唇に潤いを与えてくれるような彼の声だ。「迎えに来たよ、早く起きなよ」急かすように語りかけられて瞼をこじ開けてみる。すぐ上に見えたのは澄んだ湖が朝日で照らされキラキラと輝いているような双眸だった。

 誰だこの男は、と思いながらもぼんやりと眺めてしまう。色素を失ったような白髪が少し揺れて、愛しい弟の姿を思い出した。彼は銀髪だったけれど、このぐらいの長さで青く澄んだ目をしていた。小さな弟に接していた時のように自然に伸ばした手が男の髪に触れれば男は少しくすぐったそうに瞳を細めてから、口元を緩める。この笑い方に見覚えがある。

「上は最初から知ってたんだろ。君は海外で活躍する隠された特級被呪者だったわけだ。どうしてわざわざ日本に来た?」

 やっぱりこの男、五条悟じゃないか。あの布の裏はこんなベビーフェイスだっただろうか。なんで彼がここにいるのかは別として、彼は私が領域展開した事を知っている。ということは私の中で呪いとなったクロロと話したのだろう。最悪だな。

「そんなんじゃないよ、私は念能力者。ここに来たのはジャポン……日本に一度来てみたかったから。戦うのにも疲れたから補助監督をしてるだけ、全部気まぐれなの。でも貴方みたいなのがいるならやめておけばよかった」
「へぇ、いうねえ。僕と出会わなければよかったって?」

 煽るような笑みと同時に柔らかい風に吹かれたかと思えば、ブワリとやけに暖かい感情が吹き出した。胸を焦がしてやまないような感情を私は知っている、だからこそ唇を噛み締めた。再び疼き出した凶器が震えている、早くしろ、餌をよこせと喉を鳴らしている。

 ――だめだ、だめだ、だめだ

 踏みとどまれと強く念ずるように頭に刻み込んでいるのに、目の前の男は優しい手つきで私を引き寄せる。胸板を押し返して離れようとするがびくともしない。反発すればするほど強く抱きしめられて首元に彼の顔が埋まる。なんて暖かい体なのだろうか、陽だまりのようなこの体温に溶けてしまえたら、このまま一つになってしまえたらどんなにいいだろうか。

『お前はいつか好きな人を殺しちゃうよ。だってお前は殺しが好きだから。お前は愛したら殺さないと気が済まない、それがお前の愛なんだよ』

 滲み出た欲がこぼれ落ちそうになって途端に痺れるような恐怖が流れた。瞬きする瞬間、脳裏に浮かんだ五条悟は血塗れだったのだ。額から首筋にかけてドロっとした赤い液体がゆっくりと流れて、心臓は凍っているみたいに動かない。

 ――コロシタイ、コロシタイ、コロシタイ 舌舐めずりするほどこの男が好きだ。永遠に私のものになれ。眉間の上、額の奥の方で司令塔がピリピリと疼く。

「離して!」

 限りない欲望で満たされる前に、力ずくで体を引き離す。精神を引き戻すように強化した爪で額を突き刺せばそこから痛みが溢れて思考が鮮烈な色を取り戻していく、驚いた彼は私の腕を強く掴んだ。一体何をやってるんだと怒りを交えたその瞳さえも今は美しく見える。しっかりとそれを頭に焼き付けて腹から声を搾り出した。

「好きにはなれない、愛せ、ない、きっと殺しちゃう、いやだ、いやだいやだいやだ、それはいやだ…!」

 思ったよりも唇が震えていて、彼が私を恐れてしまうことが怖かったのだと思い知らされる。この感情を剥がしても剥がしてもかえって厚みを増していく欲望。喉がカラカラに乾き切っている、熱い、血が欲しい、だめだ、血なんて欲しくない!短く脈打つ心臓が血液を押し出していくように、震えが恐怖を突き動かしていく。

「僕は殺せないよ。最強だからね」

 だけど返ってきた言葉はあまりにも柔らかかった。澄み切った目が細まって、信じられないくらいに穏やかな笑顔を向けられる。雲間から太陽が顔を出したような、彼の体温と同じように暖かく屈託のない微笑が胸にすうっと溶けていく。何故か目頭が熱くなって、一滴、溢れてしまえばそれはもう滝のように零れ落ちてくる。
 半ば呆れたように息を吐き出して、彼の服の裾を使って優しい手つきで目元を拭われる。「そこ手当てしようよ」と彼の手が額を突き刺していた手に触れた瞬間、違和感を感じた。それは指を引く抜くと同時に形を表した。

「…これ針?こんなの頭に入れてたの?流石の僕もこれは引いちゃうなあ」
「うるさい、黙って」
 
 あの野郎、妹に針さしてやがった。サーッと血の気が引いていくが、叫びまわりたい、物を壊したい衝動に駆られる。しかし妙にすっきりとした思考が自分を宥めているようだった。今まで濁り切っていたものが雲ひとつない青空のように澄み渡っているような気がしている。手元に残っていた針を念を込めて握り砕けばそれは風と共に散っていく。脳裏に浮かんだ兄は面白くないものを見るように眉を顰めていた。だから心の中でざまぁみろ、と笑ってやったが顔に出ていたようだ。そしてまた体は陽だまりの体温に包まれる。

「悟くん」
「は?」
「迎えにきてくれてありがとう」

 パッと体が離れれば彼は得体の知れないものを見るような目をしていた。「五条さんなんて堅苦しい呼び方やめてよ」とあれだけしつこかったのに。半開きになった彼の唇にゆっくりと触れてやれば、熱が身体の芯から込み上げてくる。近くで見える碧眼はうっすらと焦燥感を孕んでいる、でもその奥には確かな熱を感じた。最後に残ったのは憎悪でも殺意でも悲しみでもない、不安定で、でも暖かくて、私を強くするもの。五条悟に対する、人間に対する愛しさだ。

「だから、お別れをする」

 立ち上がって振り向けばそこにはかつて愛した男が本を片手に私を待っていた。



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