漆黒の獣は夜に笑う




 伏黒が寮へと帰宅するためジリジリと焦げてしまいそうな太陽の下を歩いていた時、遠くの方で知っている黒髪が見えた。補助監督のナマエだと気づくのに時間はかからなかったがここからだいぶ距離もあるしわざわざあそこまで行って挨拶するほどの間柄でもない。しかしナマエという謎に包まれた補助監督に聞きたいことは山ほどある。行こうか行くまいか悩んでいた時、彼女が後ろを振り向いて手を振ってきた。それは偶然後ろを振り向いて伏黒の存在に気づいた素振りではなく、初めから気づいていたかのようだった。

「今帰り?お疲れ様、今日暑いね」
「え?ああ、お疲れ様です」
「アイスたくさん買っちゃったからあげるよ、確か虎杖くんと部屋隣なんだよね?これ虎杖くんにもあげて」

 片手にぶら下げたコンビニの袋をガザガザと探っているが、中に見えた長方形のパッケージに目がいった。

 ――タバコ吸うんだ

 先入観だがタバコを吸うような女性には見えなかった。少し、吸っているところを見たみたいという願望が湧き上がってきたがすぐに頭を振って打ち消した。

「じゃ、私まだ仕事あるから」

 アイスを二つ手渡されれば、彼女の手首に巻かれていた包帯に気がつく。そういえば暑いね、といっていたくせにしっかりとスーツを着込んでいる。自然に首元に視線がいけばそこには黒い痣が見えて不思議と胸の内側がざわついた。咄嗟に口を開きかけたが「こまめに水分とるんだよ」と彼女は穏やかに言い放って去っていった。表情は柔らかく優しかったが、細まった瞳の裏には透徹な意思があったのだ。余計な詮索はするなと言われているようで伏黒は閉口したままその後ろ姿を見つめていた。

 ***

「ナマエさんからアイス貰ったぞ」
「えっ、どこ?どこにいんの?」
「…もういねぇけど、なにビビってんだよ」

 珍しくギョッとして視線を泳がせた虎杖は彼女がこの場所にはいないのだとわかった瞬間に分かりやすく肩の力を抜いた。その様子を訝しげに伏黒は見下ろしながら貰ったアイスの袋をこじ開けた。

「いやーカッコ悪いけどさ…ビビってる、かも」
「五条先生には相当冷たいけど俺らには優しいぞあの人、ビビる要素ないだろ」
 
 伏黒は自分で言っておいて違和感を感じていた。どこか歯車が噛み合わないようなそんな感覚。

「…宿儺と10秒間変わって元に戻った瞬間、一瞬だけだけど、あの人からの殺気が直に伝わってきた。俺だけに向けられたすげー嫌な殺気、声を出すのも、動くのも、怖くてできないような、とんでもなくでっかい獣を目の前にしているような感じだったんだよ」

 立ち込める煙の向こう側に見えた女の真っ黒の瞳に射抜かれた瞬間、足の指先一つさえも動かせば噛みつかれそうな緊張感。嫌な汗が背中から流れていく一つ一つの感覚さえも鮮明に感じられた。
 虎杖にとっては思い出すだけで身震いするような記憶だった、それが自分よりも体の小さな女から発せられたものだという事実がより恐怖を上塗した。 他人から見れば何を馬鹿なことを言っているんだと思われているのであろう。しかし悔しさや矜持よりも恐怖が虎杖の中では勝っていたのだ。

 少しクセの強い補助監督だとは思っていたがそれだけではないのは確実だ。五条先生に聞いても誤魔化されてしまうし詳しいことは全くわからない。しかし上が彼女の存在を野放しにしている理由があるはずだ。最近まで海外に赴任していたと聞いているが補助監督として赴任していたわけではないだろう。

「ナマエさんの目、ほんと殺人鬼みたいだったんだよなぁ」
「はぁ?殺人鬼みたことあんのかよ、いくらなんでも失礼だろうが」
「でもほんとあの時だけ。それ以外はめっちゃ優しいし、綺麗だし、スタイルいいし。五条先生の扱われ方は同情するけどな」
「…あれは自業自得」
 
 自分たちの師は任務が終われば必ずナマエに電話をする。「いいとこ見つけたんだけどご飯行こうよ」「恵たちも一緒だからいいでしょ?」勝手に生徒を利用して彼女との夕食を取り付けたり、彼女に自分の活躍を話せと無茶苦茶な事を言ってくる。しかしナマエは全てを綺麗に交わし全く靡かない。五条先生は見た目だけは良いが彼女は興味がないようで、いやそれを通り越して完全に嫌悪されている。いい気味だと思いながらも彼女に当たっては砕け続けているあの男の精神力を称賛する。

 大地から立ちのぼる炎に似た陽炎の奥で揺らいだ彼女の後ろ姿を思い出す。自分は声をかける事さえ、臆したのだ。



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