夢現の再開



『ただいま』

 家の扉を開いても誰かが返事をしてくれるわけでもない。誰もいないことはわかっていた。買ってきてあったコンビニのお弁当の袋をテーブルに置いて、真っ暗なキッチンを眺める。昔はよく母親があそこに立っていたが、家を出ていったきり戻ってきていない。父親は夜遅くまで働いているし、姉は既に家を出ているから食事は大抵一人だった。コンビニの弁当は味気なくて、物足りない。冷たくても温めても大差なく感じたのはとっくに自分の心が冷え切っているからだ。そういえば近所のお家からカレーの匂いがした。お母さんがまな板をトントン、と切る音や、香ばしい香り、子供が家の中を走り回っている足音。鮮明に思い出してはここに一人で座っている自分に同情した。一人ぼっちで、可哀想な自分。テストで点数でいい点とっても、運動会の駆けっこで一位になっても、努力しても、認めて欲しい人はいつも側にいない。不意に目頭が熱くなって、ポツリと涙が白米に落ちた。泣いたってどうにもならない、自分は恵まれている方だ、毎日ご飯を買うお金はあるし、帰ってくる家だってあるんだから。子供ながらに自分に言い聞かせていれば、玄関の扉が開く音がした。父親が帰る時間にしては早すぎる。

「なんだ、もう食べてたのか?コンビニ弁当なんて止めてこっちを食え。上等な天丼、買ってきてやったぞ。一緒に食べよう、ナマエ」

 祖父がにっこりと笑って、天丼を片手に持ち上げた。祖父のお気に入りの店の上天丼だ。ナマエは立ち上がって、無言で祖父に抱きつく。「おおっ、なんだどうした。そんなに天丼が嬉しいか?」と祖父は笑って大きな手で背中を撫でた。ゆったりと、優しい、線香混じりの祖父の香り。寂しい幼少期を埋めてくれたのは祖父だった。どこかへ連れていってくれるのも。物を与えてくれるのも。タフだと思っていた父が呆気なく病で死んだ後も、側にいてくれたのは祖父だった。ナマエには祖父しかいなかったのだ。

***


「ん…」

 目覚めは心地よく、足や腕の筋肉はしなやかで健全な刺激を待ち受けていた。肉体の疲れも気怠さもとうに消えている。これも、処方された薬のおかげなのだろう。そのせいで日中は眠くなることが多い。今まで無理に稼働してきた頭が回復しようとしているみたいだった。しかし頭の半分はまだ暖かい泥のような無意識の領域に留まっている。今何時だろうか、上半身をゆっくりと起こした時視界に毛先を赤く染めた金髪が映った。煉獄がベットの脇に置いてある椅子に腰掛けたまま瞳を閉じていたのだ。腕を組みながら体制はそのままで、ほんの少しだけ顔を傾けて眠っているようだった。勇ましい眉が緩まっていて、黒く長いまつ毛がよく見える。現世で煉獄を看病している時も思ったが、この男が眠っている時はひどく幼く見えた。実際ナマエは煉獄の年齢を知らなかったが自分よりは上だろうと確信していた。外から差し込んでくる日の光が煉獄の髪を照らすときらきらと輝いて見える。また再開できるとは思わなかったと沸々と胸の内から感情がこみ上げれば、自然に手が伸びていた。

(本当に煉獄さん、かな)

 起き抜けの思考で馬鹿げているとも思いつつ、伸ばした手が煉獄の髪に触れた。あの時ドライヤーで乾かしてやった柔らかい髪の毛。毛先の方へ指でなぞってみると燃える様な赤が見えてくる。はっきりしない自分の髪色とは大違いだと思っていた時、ばちりと赤黄色の目と視線がぶつかった。慌てて手を引っ込めて「起こしてしまってすみません」と言うつもりが何故だか言葉が出ない。煉獄もまた、何か幽霊でもみるかのような表情をしていたが暫くしてその眼力を強めた。

「すまない」
「え?」
「君を助けられなかったのが悔しい」

 以前助けられた恩を返したかったのだろうか、見た目通り義理堅い人だ。煉獄さんは深刻そうな面持ちでこちらをじっと見つめてくるものだからどう返せばいいのか分からず戸惑った。励ますのも違うだろうし。相変わらず力強い眼力、前は夕暮れのように見えていたのに不思議と今は日の出が煉獄の目に浮かんでいるように見える。

「助けてくださった方がいますし、大した怪我はしてません」
「…尚更だ。それにすぐ戻れず申し訳ない…色々不安だっただろう」
「胡蝶さんから煉獄さんの任務のことを色々聞いていましたし、ここでは皆さん良くしてくれました…来てくださって本当に、ありがとうございます」

 ナマエは胡蝶から煉獄が遠方の任務に出ていること、戻ってくるのに時間がかかることなど色々聞いていた。任務で疲れているだろうに、自分のためにここまで来てくれたこともナマエは恐れ多く感じていた。

「そう言って貰えると助かる。しかしもう案ずることない!君の状態は胡蝶から報告してもらっていたが今日異常がなければ帰宅していいとのことだ!千寿郎には文で君のことを伝えてあるから準備も整っている、男所帯で申し訳ないが君が暮らしやすいように頑張ろうと千寿朗と…」
「すみません、なんのことだかさっぱり分からないんですけど」

 まだはっきり覚醒していないせいか、煉獄の話が全く掴めずナマエは初めて煉獄の話を遮ってしまった。一瞬「む」と煉獄は眉を動かすと力強い笑みを浮かべた。

「俺の生家に一緒に帰ろう!」

***

 もちろん、この時代では煉獄以外当てがない。頼れるのは煉獄しかいないと思ったから彼を呼んだのだ。現世に帰れるまでにお世話になる場所が必要なこともわかっていた。しかしいざ煉獄の家でお世話になると思うとどこか落ち着かない気持ちになる。しかし他に道はあるかと言われればないのだ。何やら考え込んでいる間に最後の検診の時間になってしまったがこれを終えれば蝶屋敷を出ることになる。

「首の痣は時間が経てば消えますから安心してくださいね」
「はい。今までありがとうございました」

 首に触れていた胡蝶の手が遠のくと、ナマエは頭を下げた。

「いえいえ、それでナマエと煉獄さんは恋人同士なんですか?」
「え?いいえ、違いますよ!」

 勢いよく顔を上げて否定したが、胡蝶は首を傾げていた。それもそうかもしれない、煉獄しか身寄りがないから彼を頼ってしまったが、周りからはそういう関係を思われても仕方がない。尚更ナマエは煉獄に対して申し訳ない気持ちになった。

「あらあらそうなんですね。冨岡さんには朗報ですね」
「冨岡さん?」
「貴方を助けた柱のことです」
「は、柱…?」

 まるで今まで知らなかったのかと目を見開かせた胡蝶にナマエは居心地の悪そうな顔をした。冨岡義勇という方は自分を助けてくれた隊士だということ、柱というのはそれはもうお偉い方々のようで凄いんだとか。煉獄や冨岡は柱であることを知ってナマエはどこか安堵した。今ままで彼らに感じていた圧倒的な違いというものの正体だからだ。きっと血の滲むような鍛錬や経験をしなければ到底得られぬものだろう。普通と違って当然だ。「では胡蝶さんも、柱なんですね」とナマエが言うと、胡蝶はなぜわかったのだと言わんばかりに瞬きした。胡蝶から感じるものも、また同様に普通とは違うものであると最初から思っていた。雰囲気や視線、話し方、仕草、呼吸。煉獄も冨岡も胡蝶も、ずば抜けているのだ。

「誰でもわかると思います。纏っているものが、違いますからね」

 ナマエの言葉に胡蝶は目を細めて笑う。胡蝶のその貼り付けたような笑顔も、また違うものだと思いながらも口には出さない。

「貴方の手は綺麗ですね」
「…手?」
「煉獄さんが外で待っていますよ。お大事になさってください」

 胡蝶は相変わらず美しい顔で微笑んだ。



prevnext



back

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -