脾腹を突く



 土産を片手に煉獄が帰宅すると、優しい微笑みを浮かべて出迎える人の姿はなかった。買い物にでも行っているのか。縁側に腰掛けている槇寿朗の姿が見えたので声をかけたが相変わらず「あぁ」と喉を唸らせることしかしない。その態度にはもう慣れ切っていたし、最近は父の想いがわかる様な気がしていた。槇寿朗は立ち上がって煉獄に目もくれず自室への道をゆっくりと進んでいったがその後ろ姿に煉獄は違和感に気づく。いつも肌に離さず持ち歩いている酒樽がない。匂いからして断酒はできていない様だが、もしや酒を切らしたのか。

「兄上!お帰りなさい!」
「ああ、ただいま千寿朗!」

 パタパタと駆け寄ってきた千寿朗は「ナマエさんは買い物に行っていますよ」と聞いてもいないのに言うものだから煉獄は苦笑した。

「先程まで父上がそこにいたのだが…」
「ああ、猫ですね」
「…猫?」

「ほら、そこです」と千寿朗が縁側の下を指さしたので視線を向けてみると煤を被ったような色の子猫が米の粒をペロペロと舐めている。煉獄は思わず面食らってポカンと口を開けてしまったのだ。あの父上が、子猫に餌をやっていたのかと。勿論、槇寿朗は最初から酒に溺れて怒鳴り散らすような性格ではなかったが、とてもじゃないが煉獄には考えられなかったのだ。千寿朗が兄の顔を見て可笑しそうにクスクス笑っている。「ナマエさんが、」と出た名前に煉獄がはっとしたように開けていた口を閉じた。

「ナマエさんが可愛がっている野良猫なんです。子猫がここに迷い込んできた時、ナマエさんがわざわざ父上に聞いたんです。猫に残飯をあげてもいいですか、と」

 背筋がぴんと伸びた。父である槇寿郎は怒鳴って拒否したに違いない。その光景を思い浮かべては煉獄はナマエを不憫に思う。あの父親の状態を知っていてもそれでも謙虚に許可を取るナマエだから尚更であった。

「でも父上、特に怒るわけでもなくて…勝手にしろって…。僕も驚いたんですが、最近はナマエさんが猫を可愛がっている姿を父上が縁側から見ているんです。特に何か言うわけでもなくて、ただ眺めているというか。でも今日はナマエさんが出てしまっているから父上が餌をやったんですね」

 よもや。自分が不在の間、父とナマエがこのようになっていようとは思いもしなかったと煉獄は「ううん」と唸ってから腕を組んだ。

「ナマエさんはこうやってお腹を撫でて、抱きしめて頬でスリスリするんです」

 千寿朗が子猫の腹をわしゃわしゃと撫でてから抱き上げて柔らかそうな猫に頬擦りしている。微笑ましい光景をそのままナマエで想像してみる。この猫の前では目元に皺を作り柔らかく微笑んで眉尻を下げているのだろう。猫はやれやれといった表情で甘んじてその行為を受け入れる素振りをしながらも毎回ここに訪れるという事は満更でもないのだ。抱きしめられている間は彼女の温もりに浸っていられるのだろう。

「むう。なんとも羨ましい限りだな」

 自然に口に出していた言葉に煉獄はしまったと思ったが「兄上もやりますか?」と意味を履き違えてくれた弟に救われた。きっとナマエと猫を眺めていた父の顔は昔のように優しいはずだ。そうでなければならない。

「いや、俺はいい」

 煉獄は土産を千寿朗に手渡し背を向けた。羽織がバサッと揺れるほど勢いのある動きであった。

「ナマエを迎えに行ってくる!」

 煉獄が家を出てから暫く歩くとナマエを見つけた。買い物を終えて帰っている途中だった、煉獄の姿を見つけると嬉しそうに小走りで駆け寄ってきたため煉獄は自然に子供のように頬を綻ばせていた。

「煉獄さん、今帰りですか?お帰りなさい!」
「ナマエ、ただいま!さっき帰ってきたんだ、君を迎えに行こうと思っていたんだ」
「わざわざありがとうございます、今日は煉獄さんが好きなさつまいものお味噌汁にしようと思って」
「それは嬉しいな、任務を頑張った甲斐がある!」

「煉獄さんにはいつもさつまいものお味噌汁でもいいくらいですよ」と目を細めて微笑んだナマエに心臓の端を掴まれたような気持ちになって、ふっと口元が緩まる。彼女はいつもそうだった、とうの昔に痛みを殺した領域に手を差し込んでくる。最初は困惑した煉獄も、次第に伸びてきたナマエの手を掴みたいと思うようになってしまった。母が弱き人を助けることは強く生まれた者の責務だと言うならば、では強者は誰が守るのだと訴えるような言葉をナマエは放り投げてくる。本人は意識してはいないがそれは煉獄の中で塊となり、少しずつ大きさを増していく、気づけば名を持たぬものが常にそこにあった。

「何故、千寿郎や甘露寺は名前で呼んで、俺は煉獄なんだ?それに君に敬語を使われると妙に距離を感じるんだが」
「え?それは、だって目上の方だし…居候の身で、そんな」
「君と俺は同じ歳だ、言ってなかったか?」

 ナマエの顔が驚愕に震えている。そんなに自分は老けているのかと何とも言えない気持ちになったが後には退けなかった。以前一度だけ、自分に対するナマエの砕けた口調を聞いた。その時の記憶が鮮明に甦ると次第に熱が灯り始めるので頭の中で揉み消す。しかし千寿朗や甘露寺と親しげに話すのを見ていて焦がれる自分がいる。

「杏寿朗、君」

 眠りの中で聞く楽のような声で紡がれた名が、胸で弾ける音がした。

「実は敬語苦手なの…もしかしてわかってた?」

 ふにゃりと眉尻を下げて柔らかく笑ったナマエに痺れるような想いが背筋を走る。自分で言っておきながら、自分を殺すハメになろうとは。煉獄は後悔なのか何なのか分からない気持ちを胸にそっと仕舞い込んで自分を戒めるような強い笑顔を浮かべた。

「いや!君と親しくしたいだけだ!」

 ナマエは顔を逸らしたが、その頬は少し赤かった。気づけば家の前についていたが待ち構えていたように槇寿朗が戸を開けた。

「…何をしているナマエ、早く夕飯を作れ」
「あっ、はい!」

 我に帰ったようにナマエは自分の横をすり抜けて屋敷の中に入っていった。戸を手で押さえていた槇寿朗はそのまま煉獄の横を通りすぎて家を出る。「父上、どちらに。もう日が暮れます」と声をかけると槇寿朗は「酒を買いに行く」と短く言った。煉獄はわかりきっていて聞いたし、止めることもできないのだと知っていた。それでも問いたのは槇寿朗の微かな変化を見逃したくはなかったからだ。「ナマエが」と口に出せば足を止めた槇寿朗の訝しげな視線がこちらへと向けられる。

「今日の夕飯にさつまいもの味噌汁を出してくれるそうです。今から出ると、帰る頃には彼女の夕食が冷めてしまいます」

 外はもうすっかり冷え込んでいる。槇寿朗は一瞬身震いすると忌々しげに舌打ちをして振り返る。先程と同じように煉獄になど目も暮れず再び家の中に入っていく様子を眺めながら煉獄は息を吐きだした。きっと縁側で酒樽を持っていなかったのはナマエに見られたくなかったからだ。槇寿朗の酒樽を見て、ナマエがどんな顔をするかなど明らかであったから。買い物に出たナマエに酒を頼まなかったのがいい証拠だった。

「杏寿郎」

 久々に呼ばれたからか煉獄は刮目して父の背中を見た。こちらに視線は向けられないままだったが、それでも十分であった。

「あの娘はいずれ帰るのであろう。ならば深入りするな」

 引き潮の後の潮鳴りの響きのように胸を打つ。不意に脾腹を突かれたような気がした。手足が重くなり、口の中がやけに乾燥していた。


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