0−零(中編)

 青々とした草原で、兄の背中を追いかけている。
同学年の子どもよりも小柄だけれど、妹の私より広い背中が見える。

手を伸ばせば届く距離に背中はあるけれど、私はつかまない。
つかまえなければ、いつまでも一緒に遊んでいられるもの。



 新幹線は静かに闇の中を走っている。

私は額が冷たい窓に触れて目を覚ました。暗闇のせいで鏡になった窓に、きちんと化粧をした自分の顔が映っている。

そっと唇を押さえると、指先に赤い色がついた。

 何年ぶりだろうか。

こんなにきちんと化粧をしたのは。大学生になっても洒落っ気が起こらず、素顔で過ごしてきた私は、社会に出てからも最低限の身だしなみで済ましていた。

着飾る意味が私にはなかったから、化粧も流行の服も必要なかった。

 勤務先の会社で事務職に就いているから、派手な化粧などせずとも仕事に支障はない。

受付業務の女性たちのように顔を見られることなどない。皆、お茶くみの女の子程度の認識しかしていないのだ。

同僚は不満のようだが、私は気にならなかった。男女平等など言葉だけだと理解していたし、平等の意味さえ曖昧な現代において、真の平等が確立されるとは考えにくい。

 座席を少し後ろに倒して私は背筋を伸ばす。人がまばらで空いているから、思い切り椅子を倒しても構わないのだろうが、気がひけた。

車内の人は皆、疲れ切った顔をして眠っている。スーツを着た男性ばかりだ。ネクタイを緩めて、束の間の休息を満喫している。

父もよくネクタイを緩めたまま、眠りこんでしまう人だった。母を亡くしてから、仕事一筋に生きて、家族の生活を支えてくれた。

優しい人で叩かれたり、説教をする以外に声を荒げたり、そんな真似は絶対しなかった。

いつもくたびれた笑顔を浮かべて、兄と私の頭を撫でてくれた。

小学生の頃、私は爬虫類が好きだった。爬虫類の図鑑を休み時間に読んでいて、同級生の男の子に気味が悪いといじめられたとき、父はいつものくたびれた笑顔で私に言ってくれた。

「好きなら好きでいいじゃないか。好きな気持ちに恥を感じる必要はないのだよ」

 父はありのままの自分を大切にしなさい、と頬笑みなら私に語りかけてくれた。

 まるで春の日差しのような人だった。

傍にいるだけで私は幸せな気持ちになれた。心から父を愛していた。

もちろん兄も父をとても愛していた。私たちは完璧なほど幸せな家族だったのだ。

 しかし、父は私が中学二年生になったばかりの頃に病死した。過労死だった。

遺産が手元にあったとしても、私と兄は全て失ったも同然の状態になってしまった。

 黒い喪服を身にまとって、兄と私は父の遺影の前で一晩中抱き合ったまま夜を過ごした。父はもう灰になり、私たちを抱きしめてくれた腕は永遠に戻ってこない。

お互いにお互いを抱きしめていなければ消えてしまいそうなぐらい、心が傷ついていた。兄は何度も私の耳元で「俺がいるから、兄ちゃんがいるからな」同じ言葉を呪文のように呟いていた。

呼応するように「私がいるよ、お兄ちゃんには私がいるよ」私は返事をした。

長いようで短い夜を越えて、私と兄は絆を確かめ合い、今日まで生きてきた。

 私は父が残してくれたお金と奨学金で大学までいくことが出来たし、兄も無事に就職できた。

兄は一度も彼女を作らずに十代を過ごした。

私は、どうしてとは決して聞かなかった。答えは分かっていたから不要な質問だった。

「お兄ちゃんの一番は私だよね」
「もちろんだ」
「私が好きだよね」
「当たり前じゃないか」
「ずっと傍にいてくれるよね」
「永遠に傍にいるよ」

 日常的に繰り返している質問を答え終えた時、兄は必ず私の頭を撫でてくれる。

父とは違う、どこか頼りないけれど暖かい手。私はその手をとり、自分の頬に当てる。

目をつぶってぬくもりを確かめていると、兄も手のひらからの私の体温を感じるように目をつぶる。

私たちはその姿勢のまま、じっと動かずに静かな時間を過ごす。

世間から見れば不思議な光景かもしれないが、私たちにとって絆の確認は生きる意味だった。ひとりでは生きていけない、誰かが、誰でもいいわけじゃない、心から愛している誰かがいなくては生きる意味は消えてしまう。

母が、父が消えてしまったときに私や兄の心が消えてしまいそうになったように。

だから私たちは何回も確かめ合った。

 生きている、私は兄のために、兄はわたしのために、生きている。

命の理由は全てお互いのために存在した。

 兄が誰も好きにならなかったように、私も恋をしなかった。

する必要がなかったし、私は兄さえいてくれたなら何もいらなかった。

バイトから帰宅した兄に手作りのご飯を食べさせるために、毎日早く学校から帰宅して、家事を全てこなした。

友だちや先生は私を偉いと褒めた。遊びたい誘惑に負けないで頑張っている、素晴らしく模範的な学生と担任の先生は私を高く評価した。

 良い成績を保ち続けたのは兄を心配させないため、料理するのは兄に他人の手料理を食べてほしくないから、洗濯するのは他人に兄の服を触らせたくなかったから、掃除をするのは一緒に生活している痕跡を眺められるのが嬉しいから。

 全ては兄のため、兄と生きる私のためだった。辛くなかったし、私は幸せを覚えていた。

 孤独の影を追い払うために私は兄の傍を離れなかった。休日はずっと同じ部屋で過ごし、食事も必ず一緒に摂った。離れ離れの日々など想像出来なかった。

けれど、私たちは大人になっていき、離別の瞬間はあっという間におとずれた。



 眩しい光が目に飛び込んで来て、私は瞬きをした。
新幹線の外には眩しい街並みが見えてきている。田舎から都会に出てきたので、突然増えた光の洪水に軽いめまいを覚える。


 私が大学生になり、兄は就職して家を出た。なかなか就職が決まらず、ようやく採用された会社は全寮制だった。

数年働き続ければ寮から出られるという話だったが、具体的なことは分からなかった。

 私は兄の背中を見送った。数年の時を経て草原で見た小柄な少年の背中ではなく、逞しい青年の背中が瞳に映った。

去っていく兄の光景が、私と兄の短い青春の終わりを告げた。

家を出た兄は私が住む家に二度と帰ることはなかった。就職して二年目に、兄は私の知らない女性と婚約した。

会社で出会った女性らしく、色白で綺麗な人であるのを兄から送られてきた写真で私は知った。

今日は会社に有給をとり、私は兄の結婚式へ向かっている。

近いうちにお前も結婚するかもしれないな、と兄が私に言ったのは、先月の電話の途中だった。直属の上司からお見合い話を勧められたと、私が話したからだ。

身よりがなく、まだ若い私には保護してくれる人が必要なのだと兄も上司も考えてくれたのだろう。

見合い写真の中の男性は優しい頬笑みを浮かべている。瞳にはあたたかな日差しさえ感じられた。

会ってみなければ分からないが、良い人かもしれない。どこか父に似た笑みを浮かべる男性に対する私の印象は悪くなかった。

ありのままを兄に話すと、さきほどの言葉を返した。

 そして今月、兄は結婚を決めた。

突然のことで相手の女性は驚いたらしいが、全寮制の寮からもうじき出られると決定したのが結婚を決意した理由だと知ると、アパート探しを始めたという。

笑いながら兄は話してくれた。行動的な奴なんだ、お前みたいだろ?子どもに話すみたいにおどける兄の声は電波の悪い電話のように、途切れ途切れに耳に届いた。



 新幹線がゆっくりとホームに入っていく。

大勢の人間がホームに立っているのに、私を知っている人間は一人もいない。この世界で私を知っている人間など、ごくごく少数しかいない。

同窓会に出席せず、学生時代は真面目で大人しかった私を同級生たちは忘れている。

会社の人間も私をたくさんいる女性社員のひとりぐらいにしか覚えていない。街ですれ違っても私を認識するのは無理だろう。

 たくさんの他人の波に私は身を委ねる。冷たく、空虚な流れは慣れた感覚だった。

身よりがなく、友だちの少ない私はいつもこの冷たい波に身をさらして生きてきた。

だから兄に温めてもらう必要があった。心が凍えて動けなくならないように。



 両親を失ってから一度だけ、兄と一緒にお風呂に入った。ふたり向き合って湯船に沈んだ。

何故、一緒に入ったのかは覚えていないが、何かひどく辛いことがあったような気がする。

私は溢れてくる涙を抑えきれずに泣き続け、兄は黙っていた。どれぐらい黙っていたのかは忘れてしまった。

兄は黙ったまま、私の頭を撫でた。

すでにごつごつと男らしくなった手のひらで私の頬を拭い、抱きしめてくれた。

「お前には俺がいるからな、兄ちゃんがずっと、ずっと一緒にいるからな」

 父の葬儀の夜から数年経ち、兄の首筋は父みたいに固くて、しっかりとした筋肉がついていた。

昔の兄とも父とも違う、男の人が私を抱きしめた。私の知らない兄がいた。



 駅から直行で結婚式会場のあるホテルへ急ぐ。

華やかなスーツに身を包んでいる私がタクシー乗り場を覗きこむと、すぐに乗り込むことができた。

「おめでたい席ですか?」

 茶化した言い方で、愛想のいい運転手が振り返って微笑む。私は軽く口元を緩ませて頷いた。

そうだ、今日はおめでたい日なのだ。私は滅多にしないおめかしをして会場へ向かっている。

ネオンが夜空に映えて、まるでお祭りみたいな賑やかさが窓の外に広がっている。

華やかな式へ向かうのに相応しい夜だ。

私はコンパクトミラーを開いて、自分と見つめ合った。黒い瞳が時折入って来る街の光に浮かび上がる。

今まで一体どれぐらいのものが、この黒い瞳に映ったのだろう。

きっと普通の人より、少しのものだけが火花みたいにちらついただけで、何も映してこなかったに違いない。

私の瞳はいつからか機能が限定されてしまった。映すことができるのは限られたものだけ。

 タクシーを降りて、私はホテルのロビーへ向かう。エレベーターに乗り込むと、他人の輪に囲まれた。

 知らない香り、知らない顔。私は小さく息を吸った。緊張しているのか、指先が冷えている。

子どものころは、よく兄に温めてもらった指が今どうしようもないほどに体温を失っていく。

 エレベーターから降りると真っ赤な絨毯が目に飛び込んできた。

敷き詰められた柔らかな床に足を下ろすと、私は歩きだした。




 腰までの黒羽のように美しい髪、宝石のような黒い瞳、赤みが色気を醸し出している唇。
胸に赤いバラを一輪さしたホワイトスーツを着込んだ均整のとれたスタイル。

絵に描いたような綺麗な女性が入り口に立っている。

口元に柔らかな笑みを浮かべて、新婦である彼女を見ている。新婦の親族たちも現れた美女に目を奪われていた。

「私が兄を殺したのです」

 感情は何も読み取れなかった。喜怒哀楽、全ての感情に当てはまらないのに美女の言葉には温かさがあった。

不思議な話だが、新婦である彼女には感じることができた。
 


 新郎が死んだ。

白いタキシードの胸の部分は赤く染まり、彼は目をつぶって安らかな死に顔をしていた。抵抗した痕跡はなく、ほぼ無抵抗で刺殺されている点に警察は注目した。

実の妹が肉切り包丁を鞄から取り出して迫ってきたら、逃げたり、大声を出したり、突き飛ばすなどして何かしらの行動を起こすはずだ。

しかし、現実には彼は何もしなかった。大声をあげることもせず、逃げることもしなかった。

不意打ちで抵抗出来なかったのではないか、という意見もあったが、誰にも真相は分からなかった。

ただはっきりと分かっているのは、妹が兄を刺殺したという事実だけだ。



 刑務所の独房の中で私は私を抱きしめている。

兄は私の瞳をじっと見つめていた。

私の手にある包丁に目をやると、満足そうに笑ってくれた。

「俺にはお前を殺せない」

 分かっていた。兄はどんなに苦しんだとしても、私に手をあげるなどという真似が出来るはずがない。

ねえ、嬉しそうな顔をしないで。私は、私たちは、間違っているのかもしれないのだから。



 恋などしたことはない。

だって私はずっと始まらない恋をしていたから。始めてはいけない、恋だった。

許す、許さない、の問題じゃない。

「好きなら好きでいいじゃないか」

 懐かしい父の声がする。私は自分を抱きしめる腕に力を入れる。

「好きな気持ちに恥を感じる必要はないのだよ」

 私は口元を緩めて自分を抱きしめた。

 兄が望んだように、私は死ぬまでひとりで閉じ込められる。誰にも恋をせず、誰も愛さないように。


 永遠に始めてはいけない恋を私は全うするのだ。

私は目をつぶった。

子どもの私と兄が草原を走っている。私は兄の背中に手を伸ばす。
そして、そして……。



                        〈了〉






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