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江戸咲、恋の歌
 このぉ、道を行けばあ、君がいるだろぉう、君は僕だけを待ち続けているぅうう――
 ひどい音程の歌に、五月は思わず耳を塞いだ。

「うるせえなあ、正月。周囲のお客さんに迷惑だろうが」

 寮の共同風呂場が壊れてしまい、寮生が揃って近所の銭湯へ来ていた。

神田 皐月こと五月は大学通学のために、実家から出て大学の寮へ入った。その寮が変人キワモノだらけで、今この瞬間も湯船にはおかしな奴ばかりが並んでいる。

 音痴な歌を披露している男はあだ名を正月といい、何かと運のいいお調子者である。隣で湯あたりしているらしい真っ赤な顔の男はあだ名を神無月という。文字通り、神に見放されている。

主先輩と呼ばれる筋肉隆々の男は、まるで岩のようにじっと湯船に浸かっている。

本来、銭湯というものは、裸の付き合いを楽しむ庶民の交流場だったように思うのだが、五月の思い違いだったのだろうか。

鬼の形相で岩になっている男の横で、正月の歌に合いの手を打っているのが、変人たちを束ねる寮長である。情に厚い人で、寮生たちの悩みを全力で聞き、その結果空回りする方が多い熱血漢だ。

他にも霜月と呼ばれる、ドケチの男がいる。非常にケチなことで有名で、しみったれの『し』を取って霜月とあだ名をつけられたぐらいだ。彼は勿論、銭湯には来なかった

「銭湯に行っても銭と垢が落ちるだけやんか。僕は行かへん」だそうだ。

 そして、五月の横でしみじみと正月の歌に耳を傾けている大男。彼は清野 弥生こと三月という。外見の割に可愛い名前で、東北出身で訛りが少しある。

大きな体に相応しく、広い心の持ち主で変人たち相手にも嫌な顔ひとつしない。五月などは、よく文句を言うのだが。声がうるさいとか、しみったれとか、運が無さ過ぎるからくじ引きにはついてくるなとか。

 しかし、今回の主役はこれら変人たちではなく、寮生一真面目と言われる男・千葉 良祐(ちば りょうすけ)だった。

彼の真面目ぶりは新入生の最初の関門として毎年、立ちはだかる。

 たとえば、「俺、今年は富士山に登るつもりなんですよ」と言ったら、本当に登るまで千葉先輩は、同じ質問を繰り返す。

「おい、富士山にはちゃんと登ったのか?」

 冗談ですよ、と返したが最後。千葉先輩の雷が落ちる。

「お前はそんな適当な気持ちで、他人に自分の目標を語るのか!男して情けなくはないのか!そもそも、自分が言い出したことを実行する前にあきらめるというのは、人間として大変に問題だと僕は考える。だから、もっと真剣に考えてから発言すべきだ。ましてや嘘に変わりかねない発言を眼上の人間にするなどという恥知らずの行為を、お前を一生懸命、礼儀正しく育ててこられたご両親に申し訳ないとは思わないのか。こんな発言を繰り返していては、ひいてはお前の家庭環境の問題にまで発展するわけで」うんぬんかんぬん。

 お説教は軽くても三時間は続く。終わった後、説教された者は魂の抜け殻となり、夢遊病者のように富士山へと行った。

毎年、五人以上がこの説教の餌食になって見事に真面目な人間へと生まれ変わるらしい。主先輩が話してくれた、怖い話だ。

 千葉 良祐先輩は説教が長いので『長月』というあだ名があるのだが、後輩は恐ろしくて呼べない。彼があまりあだ名を好ましく思っていないからである。由来が由来だから当たり前ではある。

「ああ、道をゆけばあ、あの娘が笑って僕を待っているう」

 銭湯から出て、冷たい風の吹く夜道を歩き始めても正月の明るさは消えず能天気に歌っている。

真面目な千葉先輩が一緒なので、いつ「近所迷惑だ」と説教し始めるのかと、一年生はびくびくしていた。

 だが、予想外の出来事が起こった。

「正月、それは何という歌だ?いい歌だな」

 千葉先輩がラブソングに興味を持つ瞬間を初めて目撃した人類は皆、歩みを止めた。唯一、能天気な正月だけが平気な顔で話している。

「これは江戸咲 自満の『花道』って歌です。江戸咲の渋い声がたまらないんスよ」

「えどさき じまん?」

「ええ。えどはお江戸の江戸で、咲は花が咲くで、自は自分の自、満は満腹の満です。この自信過剰な名前もいいですよねえ、思いきった感じで」

 江戸咲 自満。知る人ぞ知るミュージシャンで、つまり知らない人は全く知らない。

しわがれたハスキーボイスで歌うのだが、大分お年を召した方で若者が好む音楽ではない。

だが、正月はすっかり江戸咲の虜になってしまった。江戸咲好きを増やそうと布教活動を開始し、周囲からうっとうしがられている。

「そうか、江戸咲 自満か。男は自信過剰ぐらいの方が丁度いいのかもしれないな」

 湯上りのせいか、薄らと頬を染めて千葉先輩はうつむいてはにかんだ。もっとも寮長には「おい、長月。もう眠いのか」と見えたようだった。

 次の日、三月と五月が寮長の部屋に呼ばれた。いつも楽天家の寮長が珍しく、考え込んだ顔をしている。

「お前たち二人は口が固いし、何かと知恵があるから相談したいのだが。実は長月が……千葉が恋をしているようなんだ」

「千葉先輩が恋?」

 五月は驚いて声をひっくり返したが、三月はほうほう、と頷いた。

「お相手は誰なんです?」

 大した動揺もせず質問をする三月を見て寮長は冷静さを取り戻したらしく、顔に笑みが広がる。

「分からないんだ。どうやら毎朝の散歩コースにある、名前も知らない家の娘さんに恋したらしいんだが、これがまた変わった出逢いなんだよ」

 娘さんとはまた古いと五月は笑いそうになったが、真面目な話なのでこらえた。

「ある朝、千葉が歩いていると「良祐」と自分を呼ぶ声がした。声がした方を見ると、若くて綺麗な娘さんが笑顔で、生垣の向こうに立っている。
何やら手を振っているような仕草さえうかがえる。こりゃあ、知り合いか何かだっただろうかと軽く会釈だけして通り過ぎたそうだ」

 恋愛話ではなく怪談みたいに語るので、五月は眉をひそめたが三月は興味津津らしく、熱心に耳を傾けている。

「毎朝、通る度に娘さんは必ず笑顔で呼びかけてくれる。知り合いかもしれないと、卒業アルバムからご近所さんが写っている写真まで調べ尽くしたが、どうも見当たらない。それで千葉は自分から話しかけることも出来す、悩んでいるわけさ。もし話しかけて、かつての知り合いだったら記憶にないのは失礼だと言って頑として思い出すまでは声をかけないつもりなんだ」

「思い出すまで待つわけにはいかないんですか?」

 やや訛りのある口調で三月が問うと、寮長は重々しく首を振った。

「正月が歌っていたあの日から一週間。千葉はずっと江戸咲 自満の歌を口ずさんでいるんだ。銭湯へ行く時も、大学へ行っている時も、飯を食べている時も、小便している時もだ。このままでは、寮生が先に精神をやられるだろう」

 寮長の恐ろしい話に、三月と五月は頷いた。真面目でカタブツで、未だに男女交際などという古い言葉を使い、ラブレターを恋文と呼ぶ(そもそもラブレター自体が古い)、あの千葉先輩が人前でラブソングを歌うということは、赤ん坊がお経を読み始める驚きに匹敵する。

「でも、どうするんです?告白でもするんですか?」

 気軽に発言してみたが、寮長と三月の視線が自分を向いたので五月は口をつぐんだ。
「それしかないだろう。娘さんが良祐と呼ぶのだから、千葉からも声をかけて何とか恋に発展させてだな」
「でも、思い出すまで声をかけるつもりはないんですよね?千葉先輩、嫌がるのではないんですか」
「いつまでも放っておくのも失礼だと思いなおしたから、問題ない」
 心配そうな三月の声に、かぶさるようにして真面目な一本調子の声がした。
三人が驚いて振り返ると、部屋の入り口にピッタリ七三分けの黒い髪に、銀色のフレームの眼鏡をかけ、ぴっしりとアイロンのかかったワイシャツを着た千葉が立っていた。
「な、長月!お前、大学でゼミじゃなかったのか!」
「教授が下痢で休講になったんだ。それより、一年生に僕の相談をするとは」
 思わずあだ名で呼んだ寮長を咎めるように睨みながら、千葉は部屋を縦断して椅子に腰かける。
「いやあ、だってなあ。同学年の奴に話すのはお前が嫌がるだろうし、二年生は今、試験で忙しいだろ。暇なのは一年生ぐらいのもんだしさ。それにこの二人は」
「分かっている。正月の時も、霜月の時も、年末に神無月が倒れた時の便所掃除を何とかしてくれたのも、有名な三月五月コンビだからな。僕だって、ちゃんとふたりのことは理解しているつもりだ」
 真剣な眼差しで見つめられて、三月と五月は居心地悪く尻をもぞもぞさせた。
「いやあ、たいしたことしてないですよ。なあ、五月」
「うん。でも五月は正月がプールに飛び込む時に力になってあげていたよなあ。あれには感動したよ」
 三月の余計なひと言に五月は顔をしかめて、脇腹をつついてやるが筋肉に阻まれて効果がない。
 一年生の静かなやり取りに気づかず、千葉は表情を固くしたまま立ちあがった。
「僕は明日、彼女に声をかけてみようと思う!」
 歴史的条約締結が宣言された瞬間のような、緊張した声が部屋に響いた。


 翌朝、寮長と三月、五月は千葉の後を、そっと追っていた。時刻は六時半。真面目な千葉は早朝に散歩をしてから、朝一番の自習室へ行くのが日課なため、時間が早い。大抵の寮生はまだ寝ている。中には講義の始まる時間になっても寝ている奴がいる。
「眠いッス」
「頑張れ、五月。今、長月は必死に恐怖と闘っているんだぞ!」
 寮長は口に慣れたあだ名で呼ぶことにしたらしく、千葉を長月と呼んでいる。
「寮の近所にこんな住宅街があったんですねえ、いいですね」
 三月だけがのんびりとしている。前方を行く千葉は、背中に定規が入っているような歩き方をしていた。
「不審者ですよ、あれじゃあ」
「ううん、長月は本番に弱いタイプだからな」
 ふと、千葉の足が止まった。
 緑の生け垣が朝陽に照らされて輝き、奥には白い二階建ての住居が見える。広い庭があるらしく、家まで距離がある。
フランス窓のような大きな窓が開き、茶色い髪を横にひとつにした女性が生け垣の方へ、歩いてくる。
「良祐」
 軽やかな声が朝の空気に震えた。千葉の身体が遠目から見ても分かるぐらい、跳ねる。息をのむような仕草をして、千葉が生け垣へ、女性の方へ歩いていく。
三人は思わず、肩を組んでいた。
 それから数分経っただろうか。
 千葉はすたすたと歩き始めた。急いで三人は走って追いついた。
「どうだったんだ、長月!知り合いだったのか?」
 顔を上げた千葉の顔は、非常に表しにくいものだった。青ざめてもいたし、赤くなってもいたし、眼は虚ろだったし、口元はだらんと下がっていたし、眉毛もすっかり八の字になっていた。
要するに感情が読み取れなかった。
「千葉先輩?」
 恐る恐る五月が声をかけると、先輩としての威厳が千葉のスイッチを押してくれたのか、ようやく口を開いた。
「……いぬ」
「は?」
「犬が……いたんだ」
 そりゃあ犬はどこにでもいるだろう、三人は顔を見合わせる。
「犬の名前が良祐っていうんだってさ」
 世界はこんなにも静寂をもてるものなのか。千葉の一言で時間は、一瞬だけ足踏みをした。
 要するに彼女は広い庭で飼っている愛犬に良祐と名付け、毎朝決まった時間に朝食をあげるために名前を呼んでいたのだ。
しかも、彼女は良子さんと言い、付き合っている彼氏が裕祐というので、ふたりの名前を文字って愛犬に命名したらしい。
それだけの立ち話をして、千葉は早々にその場を去ったのだった。笑い話であるのだが、純情な千葉の心には深い傷がついただろう。誰もがかける言葉を探した。
「人を好きになれる人は、人に好かれる人なんだそうです。千葉先輩は、人に好かれる人なんですね」
 いつもと同じ能天気で落ち着いた三月の声がして、千葉を含めた全員がハッとした。
「何だ、それは。非科学的だな」
 笑い顔ともとれるような複雑な顔を千葉がした。三月の発言で、張りつめていた空気が軽くなった。
「帰ろうぜ、長月。俺たちの愛すべき家へ!」
 寮長が千葉の肩に手を回して、わざと元気いっぱいに話す。
 五月は黙って、千葉の横を歩く。下手な慰めを言うのは逆効果だと分かっていた。三月は鼻歌を歌っている。耳をすましてみると、それは江戸咲 自満だった。やめとけ、と五月が言う前に千葉が反応した。
「僕はその歌が好きだよ。いいよな、哀愁があって」
 意外な発言に五月と寮長は飛び上がったが、千葉が五月に合わせて口ずさみ始めたので、さらに仰天した。
 ああ、あの子は行ってしまった、全部おれの勘違い―、それでも幸せさ、君に出逢えたのだから、強がりではないよ、おれの人生に君は確かに登場したのさ、おれの物語さ―、あとで振り返るから頁から離れないでおくれよ。
「何ていう歌だよ?」
「『おれだけの恋』だよ」
 あまりにもぴったりな題名だったので、五月はうっかり江戸咲 自満のファンになるところだった。
 千葉と五月の歌に合わせて、寮長が歌い始め、小声ながら五月も混じる。寮へ到着した時には、酔っぱらいみたいな大合唱になっていた。
歌声を聞きつけた正月が満面の笑顔で飛び出してきて、食堂で音頭をとる。そうなると、元来お祭り好きの寮生たちは、一緒になって歌い出す。
カラオケ会場と化した食堂で、千葉も大声で歌っていた。最後には、いつも几帳面に磨く眼鏡を放り投げていた。
「失恋か、悪いものでもないかもしれないな。人は痛みを乗り越えて成長する生物なのだから。歴史が証明している」
 千葉が眼鏡のあとが残る鼻筋を撫でながら呟いた。
「長月……」
「ひとりでなくて良かった。寮住まいにして良かったよ」
 唇を噛みしめる千葉を寮長が肩を叩き、事情を察してくれたのか主先輩が他の寮生から見えないように仁王立ちして隠してくれた。
 こうして千葉 良祐の恋は終わったのである。
 それから、千葉は江戸咲 自満のファンになった。
「確かに失恋の苦い記憶がよみがえる歌でもあるが、僕の傷を癒してもくれるからね。それに江戸咲 自満は歌詞が素晴らしいんだ。人に対して多くを望まない姿勢と、常に他者を思いやる心が歌から溢れだしていて」うんぬんかんぬん。
 正月以上にうるさくて、やっかいな江戸咲信者が生まれてしまった。
「恋愛かぁ、この寮に住んでいる以上は縁がなさそうだな」
 江戸咲講義を開いている千葉を横目で見ながら五月は半笑いして呟いたが、三月は困ったような顔で頭をかいている。
「何?も、もしかしてお前」
 耳まで赤くなりながら、もごもごと三月が話し始める。
「実は、田舎に彼女が」
「出ていけ!お前は寮から出ていけ―!」
 五月の絶叫が、青空に響き渡った。
 



<了>



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