新↑ 

始まりの晴天
 両手いっぱいに鞄を抱え、僕は息も絶え絶えといった様子で坂道を登っていた。駅から寮までの道が厳しいとは案内に書いてあったが、バスやタクシーに乗るお金などない。
地方から都会へと出てきたばかりの田舎青年にとっては、百円の出費も惜しいのだ。
 それにしても、何という快晴だろうか。皮膚を差すような日差しは、アスファルトに跳ね返って顔を照らす。流れ出す汗すら蒸発しそうに暑い。
出来ることなら、頭から水を被りたい。思いっきり冷たい水を全身に浴びたい。
 途方もない願いを祈った瞬間、僕の全身はずぶ濡れになっていた。
一瞬、何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くした。冷たい水が望みどおり全身にかかったのはいいのだが、張り付いた感触が気持ち悪い。
「あらあ、ごめんなさいねえ!打ち水していたもんだから」
 声の方を振り返ると、初老の女性がホースで道路に水を撒いている。
「ずぶ濡れになっちゃったねえ、うちで着替えていきなさいな」
 親切な申し出はありがたったが、目的の寮はすぐ近くだったので丁重にお断りした。初老の女性はひどく恐縮してしきりに僕を引き止めたのだが、割合人見知りの僕には他人の家で着替えを借りるという行為の方が、ずぶ濡れの服で歩くよりも耐え難い。
 再び日差しを感じながら、僕は坂道を登り始めた。高い気温のおかげでずぶ濡れの服があっという間に乾いていく。
 あともう少しで寮が見えてくるという頃になって、荷物の重さを感じる。最低限の荷物にしたつもりだったが、それでもかなりの重さになった。日用品と本をたっぷりと詰め込んだ鞄が腕に喰いこむ。
冷たい飲み物が飲みたい、猛烈に。再び願い事をしたが、また上から飲み物が降ってきたら困るので僕は祈ることをやめた。
もう道端に座って一休憩しようか、そんな弱気になった時、自転車のベルの音がした。
振り返ると、筋骨隆々の体に髭剃り跡が濃い男が自転車を止めてこちらを見ている。片手には冷たそうな缶ジュースを持っている。僕の視線は一瞬、男を素通りして缶ジュースに釘付けになった。
「もしかしてT大学の寮に行くところか?」
 話し方に少し東北の訛りがある男は、人懐っこい笑顔で話しかけてきた。
「ええ、そうですけど」
「ああ、良かった。実は俺もT大学の寮へ行くとこなんだけど、道に迷ってさ」
 男は照れくさそうに頭をかいた。自転車のカゴには鞄がひとつ入っているだけで、他に荷物はないようだ。どうやら彼は僕と違って、身ひとつで旅が出来るタイプらしい。
僕は旅行に行く時は周囲が驚くほどの大荷物になるタイプだ。
「良ければ飲むかい?すごい汗だね」
 驚いたような口調で男は僕を見て、念願の缶ジュースを差し出してくれた。僕はありがたく頂戴し、一気に飲み干した。
 ちなみに男は僕が凄い汗だと言ったが、僕が濡れているのは汗のせいではなく、さきほど被った水のせいである。
 冷たいジュースを飲んでようやく脳みそが正常に働いてきた僕は、男をまじまじと観察した。見かけは老けているが、話し方からするとどうやら同い年らしい。
「……君も新入生だよね?」
 恐らく同い年と思われるので、僕は敬語をやめて話しかけた。男は気さくに頷いて見せた。
だが自分の名前を話そうとしない。それは僕も同じである。
実は僕は自分の名前を名乗りたくない理由があるのだ。
「良ければ後ろに乗るかい?」
 男は自転車の後ろを指差した。僕はひどく疲れていたので、男の提案に二つ返事で自転車の後ろに座り込んだ。
 坂道だというのに、後ろに僕と荷物を載せているというのに、男は軽々と自転車を漕ぐ。脚力の凄まじさに僕は内心舌を巻いた。
 白いTシャツの上からでも分かるぐらい盛り上がった筋肉は伊達ではないらしい。
「あ、ここだ!ここ」
 僕は捜し求めていた建物の名前を見つけて叫んだ。
 目の前にあるのは、大分古びた男子寮だった。写真はどんな加工を施したか知らないが白亜の美しい建物だった。白亜どころか灰色の壁が目に染みる建物が、これからの僕の家になるとは何とも泣ける話だ。
「ここかあ、写真とは大分違うから気がつかなかったなあ」
 暢気な声を上げて、男は自転車から降りた。並んで立つと、男の大きさがよく分かる。僕も決して身長が低い方ではないはずだが、男は僕より頭ひとつ分ぐらいは高い。
「あの、名前聞いてもいいか?」
 いつまでも名前を呼ばずには過ごせない。
 すると男は照れたような、困ったような顔をした。少し沈黙してから、見た目に似合わない小声で呟いた。
「清野弥生」
 僕は露骨に嫌な顔をしたのだろう。すぐに弁解するような声で
「俺にだってその名前が似合うような可愛い時期があったんだよ」
 弥生は照れくさそうにそっぽを向いた。
 だが、弥生の気持ちはよく分かる。
「僕は神田皐月。お互い、可愛い名前を貰っちゃったな」
 そう、僕の名前は男のくせに可愛い。昔は皐月ちゃんと呼ばれて、よくからかわれたものだ。もちろん、やり返したが。
自分ほど名前で苦労している奴はいないだろうと思っていたが、まさかこんなゴツイ男の名前が弥生だとは。どんなことだろうと、上には上がいるものだ。
「じゃあ、これからよろしく。弥生」
 弥生は恥ずかしそうに頭をかいて
「頼むから名前では呼ばないでくれ。清野でいいよ」
「俺も名前は嫌だから、神田と呼んでくれ」
 お互いに苦笑して、寮へと足を踏み入れた。
 こうして僕らは新しい道へ一歩を踏み出した。


 新しい日々を始めるのに相応しい、どこまでも晴れ渡った空の出来事だった。


<了>


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