八百運命

 甘い花の香りがした。
病室に似つかぬようでいて、どこか懐かしい香りに小野塚 康太郎は眉を上げた。
 白いベッドの上には白い顔色をした老人が横たわっており、傍に白髪を丁寧に結いあげた老婦人が座っている。
老婦人はもう意識のない老人に話しかけることも、泣いてすがることもしていない。
ただ背筋をしゃんと伸ばして、今まさに旅立とうとしている伴侶を見つめている。
(珍しいケースだ)
 声をかけずに、小野塚は壁に背を預けた。最期の瞬間を見届ける仕事ではあるが、でしゃばって家族の邪魔になってはいけない。
 小野塚 康太郎は伽弥死総合病院の医師である。
彼は遠い昔に人魚の肉を食べ、不老不死の身となった。伽弥市に潜んでいる妖たちからは「八百の者」と呼ばれている。
何十年も姿形の変わらない彼を、この街の一部の人間たちが受け入れてくれたおかげで小野塚は一応、普通の医者として暮している。もちろん、彼の患者が特殊だったり、彼の治療方法が特殊だったりすることを除けばだが。
何百年も臨終の場に立ち会ってきた小野塚の知る限り、大抵の人間は失われていく命を前に泣き、叫び、嗚咽する。体温を失っていく体にすがりつき、わずかの間でも記憶に刻むように話しかけ、出来うる限りの方法で消えゆく者に愛情を伝えようとする。
 しかし、長い時間の中で例外の人間たちもいた。彼らは泣くことも語りかけることもせず、背筋を伸ばして座っている。
口を真一文字に結び、絶対に涙など見せない。そして終わりが訪れると、静かに立ち上がり、決して振り返らずに病室を出ていく。
それが死者との約束であるかのように。
彼らの瞳は決意に溢れると同時に、どうしようもないほどの悲しみを湛えていたのを小野塚は知っている。
長い時間を生きた彼だからこそ、彼らが胸の奥深くにむりやり抑え込んだ感情を見抜くことができた。戦時中、小野塚はたくさんの死者を見届け、感情を殺した人間を大勢見た。
 だが、今、目の前にいる老婦人からは破裂してしまいそうなぐらい悲しみを抑え込んでいる様子は感じられない。冷やかとも違う、何か別の感情が彼女から溢れている。
記憶さえ失っているような遥か昔に感じた覚えのある感覚に、小野塚の意識は嫌でも人魚のことを思い出してしまう。
恋仲だった人魚。彼女の肉を食べて、自分は。
「お久しぶりですねえ、先生」
 静かな病室に、凛とした女性の声が響く。小野塚の脳裏に浮かんだ遠い日の幻を掻き消すように。
「失礼ですが」
 白い肌に小さな瞳、やや尖った鼻に丸みを帯びた唇の老婦人の横顔は、小野塚には覚えがない。
やんわりと覚えていないことを伝えると、老婦人が体を動かして小野塚を正面から見つめた。
目元の小じわや、老人特有の色素沈着が肌に見られるが、老婦人は美しかった。小さい瞳に尖った鼻など顔の造形は不調和で一般的な美女ではないのだが、老婦人から発されている輝きが彼女を美しく感じさせた。
「先生。私、前にも先生にお世話になりましたの。あれからもう数十年も経ちました、お忘れになっていても仕方ありませんわ」
 小野塚は嫌な予感がした。彼の姿はもう何百年も変わっていない。その小野塚を覚えていると話すこの老婦人は、不死の肉体の秘密に気が付いているに違いない。
「私はまだ若い娘でした。夫が死んでしまい、先生が立ち合いに来てくださったのですわ。近所の医者は先生だけでしたから」
 まとめ髪のほつれを右手で直しながら、老婦人は小野塚から視線を逸らさない。
「あの時は哀しくて、哀しくて……この世の憐れは全て自分に降りかかった気すらしました。ですから私は、人魚になろうと決めたのです」
「人魚ですか」
 予想外の言葉に小野塚は反応した。
また遠い日の幻が瞳に点滅し始める。
「ええ、私が人魚になって愛しい人に私の肉を与えるのです。そうすれば彼は不老不死の体になり、私は二度と置いて行かれる哀しさを味わなくてもいい。私はどうすれば人魚になれるか真剣に考えました」
 過去に貧しい漁村で、おさげ髪を揺らした少女が海へ飛び込もうとした事件があった。小野塚も偶然、現場に居合わせたので詳細は知っている。
ぼろぼろの着物がぐったりと濡れていた。
「人魚さなりてえ、人魚さなってあの人探すんだ」
 同じ言葉を繰り返し呟きながら、少女は砂をひっかいていた。
小さな瞳は海を映していた。羨望と怖れと憎しみが綯い交ぜになった、不気味な色合いの瞳を小野塚は覚えている。
 しかし、一連の事件は少なくとも百年も前の話になる。あの時の少女が目の前にいる老婦人のはずがない。
疑問が顔に出ていたのか、老婦人は微笑して話し始めた。
「私も人魚の肉を食べたのです」
 めまいがした。人魚の肉を食べた?
 まさか彼女を。
「人魚になりたいと神様にお願いしました。そうしたら不思議なことに、こどものような体で神様が降臨されて私を海へと連れて行ってくださったのです。気がついたら私は海を泳いでいました」
「つまり、あなた自身が人魚になられたのですか」
「ええ」
 老婦人は着物を少しまくって右腕を見せた。肘に近い部分にへこんだ傷跡がある。
「人魚が不老不死なのか無知な私には分かりませんでしたから」
 照れた顔で老婦人はうつむいた。
「そして、私は何十年も海をさまよいました。仲間のいない、寂しい海をたったひとりで。遠くで人間の声がするたびに寂しくなりましたわ。見つかったらいけないと思いながらも、いつも声の主が見える近くまで行きました」
 小野塚は沈黙した。彼女は本当に、海に飛び込もうとした少女なのだろうか。彼女は真実を話しているのだろうか。老人特有の病が進行しているのかもしれない。
疑いながらも小野塚の直感は、老婦人の話が真実だと告げていた。
「ある日、網に引っ掛かって私はこの人と出逢いました」
 老婦人は眠るように目をつぶった老人の手を握る。年よりにしては大きな手のひらをしている老人の手に、小野塚の視線が止まる。
「漁師に捕まった人魚なんてまぬけでしょう?無知の小娘が浅はかな思いで不老不死になろうとした罰なのでしょうね。捕まったときは死を覚悟しました。私の肉を食べるなら好きにしなさいと彼に言ったのです」
 人魚の肉を食べたいと願う人間は大勢いるだろう。売れば一生暮せるだけの金も手に入る。小野塚は横たわる男の顔に視線を移す。
「でも彼は」
 初めて老婦人の口元にあたたかな感情がこぼれた。
「肉はいらない、結婚してくれって言ったのです」
 老婦人は老人の手を額に当てた。
「先生は生まれ変わりって信じますか?幼児のときに前世の記憶を持っている子どもが多いのは、有名な話ですわ。私はずっと母なる海に守られて生きていました。羊水に守られている胎児のように。だから、私は彼に引き上げられて、またこの地に産まれたのです」
「生まれ変わったのですね」
「ええ、私も彼も。死んだ夫の生まれ変わりだというのが私には、すぐ分かりました。彼も前世で幼い妻を残して死んだ心残りがあったのでしょう。生まれ変わっても私を覚えていてくれました」
 やはり漁村で見た少女は、目の前にいる老婦人なのだ。小野塚は巡り合わせに絡まる運命の糸が、自分と彼女たちの間にある感覚がした。不快な思いはない。
「また彼と結婚できました。今度は添い遂げられて、私は幸せです。そして、前世と同じように先生に見取っていただけて、私たちは幸せな夫婦でございました」
 少しずつ彼女の声が小さくなっていく。
「彼は私の肉を食べませんでした。永遠など深い愛の絆の前には無意味だと。不老不死の肉体などなくても、私たちは永遠に共にいられると私は彼に教えてもらいました。
やっと、私は愛の意味を知ったのです。伝説など及びもつかないほどの奇跡が」
 老婦人の体が前のめりに傾くと、すでに死んでいる老人の横に添い寝するように倒れた。
 小野塚は腕時計を見て、死亡時刻を確認した。
今日、彼は高齢の女性の見取りを頼まれていた。
「伝説など及びもつかない奇跡……か」
 彼女は人魚の肉の呪縛から解き放たれ、愛しい人と共に旅立っていく。
 屋上へ上がると海から涼しい風が吹いてきて、紙煙草の煙を揺らす。
この煙のように右へ左へと運命は分岐していき、人魚の肉を食べても彼女のように人間へ戻って愛しい人と添い遂げる道もある。
 だが、彼にはもうその道は残されてはいない。これからも、彼は伽弥病院で旅立つ人々を見取っていく。
何かを懺悔するように、不老不死の彼は『死』を他者に近づけぬように生き続けていく。
 煙草の煙を吐き出すと、甘い花の香りが袖口から香った。
何の香りか、彼はようやく思い出した。
 遠い昔、彼を生かすために肉を差し出した人魚の香りだった。





                           〈了〉

ロートシルト
管理人:条蛇彰時様
から設定・登場人物をお借りしました。本編をご覧になりたい方は上記のリンクから、条蛇様のサイトへ飛んでみてくださいませ。
条蛇様、ありがとうございました!


企画小説『とある、小さな街のはなし』様:提出作品



作者:藤森 凛


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