彷徨う男(一部残酷描写注意)
梨花。
口に出した瞬間から消えていく甘く切ない響きに、胸が震えた。
随分と長い間、名前を呼ぶのを忘れていたような気がする。
「ねえ」や「ちょっと」、そんな言葉で君を呼ぶ代わりにしていた。
梨花、なあ梨花。ここはどこだろう?僕はやたらと薄暗い場所にいるようだ。
眼をあけると電信柱に背をもたれさせて、ビールが入った袋を抱えて座っている自分を認識した。
コートを羽織った中年男が僕を訝しげに眺めながら、小走りで去っていく。男からは病院特有の消毒液の香りがして、その刺激がわずかに僕の脳を刺激した。
そうだ、僕は家に帰ろうとしていたはずだ。
体をゆっくり起こして立ち上がると、腹部に鈍い痛みが走る。
ワイシャツはよれよれで、ズボンも皺になってしまっているが、どうして腹部が痛むのか、衣服が皺くちゃなのか、思いだせない。
手掛かりを求めて、僕は夜道を明るい光が差し込んでいる方へ歩き出した。
いつものように会社勤めを終えて、人混みにもみくちゃにされて、駅から出て……そう、毎日同じ行動を繰り返していたはずなのに。
どうして僕は住所も分からない場所でさ迷っているのだろう。
梨花、早く帰宅しないと梨花が心配する。もしかすると帰りが遅いと言って怒っているかもしれない。
早く帰らなくては。気持ちばかりが焦ってしまい、余計に記憶が混乱する。
ああ、何故こんなところにいるんだろう。
繁華街に出たらしく、いきなり蛍光色ばかりが輝く世界に放り込まれて眼が情報を処理するのに時間がかかる。何度も瞬きをして、やっとまともに顔を上げられた。
派手な服装をした団体が通り過ぎて行ったかと思うと、自分と似たような皺くちゃの服装をした男がふらつきながら歩いていく。
酔っぱらい達が騒がしく歩いていくのを横目で見ながら、もうそんな時間になったのかと慌てて腕時計を見てみると時刻はまだ午後六時だった。
おかしい。僕が住んでいる地域は田舎で、午後五時に居酒屋が開いてもすぐに客は入らない。ましてや、酔っぱらいがうろつくには時間が早すぎる。
もう一度周囲を見渡すと、人の多さに眩暈がした。気がつくと通行の邪魔になっていたらしく、人々は僕を押しのけるようにして足早に進んでいく。
急いで道の隅に避難して、大勢の人々が行き交う姿を僕は茫然と眺めた。
ここは確実に僕の家の近所ではない。
僕が住む場所は、夜になると街灯の明かりしかない寂しい街になり、夜になって居酒屋が賑わうことはあっても、その人数は知れたものだ。
こんなに大勢の人間が道を占領するかのように歩く光景など見た試しがない。
梨花、どうしよう。僕はどこにいるのだろう。
田舎の静かな土地に、やっと手に入れた念願のマイホーム。梨花は手を打って喜んでくれた。田舎育ちの僕らにとって、都会は住むには人が多すぎて息苦しかった。だからこそ、夜道には街灯しかなく、近所づきあいも田舎ならではのつかず離れずの付き合いが出来る住宅街に家を建てた。
それなのに、どうして僕は心地よい地方の家から離れた都会の夜に身を置いているのだろう。
早く帰って梨花に、そうだ梨花に渡したいプレゼントを買ったはずだ。慌ててポケットを探ると、チクリと指先に痛みがあり、取り出してみると果物ナイフが入っていた。
赤黒いものがべったりと付着している。渇いているので、顔を近づけてみないと刀身が赤いデザインのように見える。
なんだろう、これは?
朝、出かけるときにはこんなものは持っていなかったはず……。
記憶が混乱していく。自分の名前すら確かではなくなり、僕はしゃがみこんだ。
梨花。白い肌に茶色い髪をした、優しくて芯の強い僕の大切な幼馴染。僕の初恋の人。
ふらつきながら僕は歩き出す。
そうだ、僕は引っ越しをすることになって、梨花と離れ離れになるのが怖くて。
ノイズが走ったみたいに脳内がぐちゃぐちゃと乱れて、記憶がバラバラになって僕を惑わす。
梨花。
人通りの多い交差点に出ると、どちらへ進んでいいのか分からず、僕はさ迷った。どこへ行けば自宅へ帰れるのか分からない。完全に迷子になってしまった。
彼女が待っていてくれる家へ帰りたい。ただ、それだけを思っているのに。
耳鳴りがして歩いていられなくなり、道路の端によって小さな路地に体を潜ませる。
梨花、梨花、梨花。帰りたい、僕は家に、君がいる家に帰りたい。
『――です。私は梨花じゃな――――』
雑音が耳の中でよみがえる。誰の声だろう?梨花に似ているような……。
『私は夏見――。――いです。人違いです』
誰の声だ?梨花じゃない?
僕は路地に座り込んだ。皺くちゃの服がさらに皺だらけになる。
『出て行ってくださ――主人が帰ってき――警察を――――――』
膝を抱えて頭を押し付けていると、傍らに人が立つ気配がした。
栗色の髪を横に束ねて、花柄のエプロンをした美しい梨花。
いつものように帰宅して、ただいまと声をかけると仰天した顔になって僕を不審な瞳で見つめる。
そして、梨花は不思議なことを口走り始めた。
『――さん?どうなさったのですか?』
まるで他人に話しかけるような、よそよそしい梨花の態度に僕はひどく驚いた。何を言っているのだ、僕らはもう夫婦になって三年以上も経ったではないか。
夫婦なる前は幼馴染として随分長い時間を過ごした。その僕を忘れるはずがない。
『私は夏見です。私は梨花じゃないです。人違いです』
梨花じゃない?それじゃあ梨花は何処に行ったんだ?
『出て行ってください。主人がもうすぐ帰ってくるんです。早く出て行かないと警察を呼びますよ!』
梨花は電話機の前で、僕を威嚇するように受話器を上げてみせた。
いや、違う、梨花ではない。梨花はもう。
またノイズがひどくなる。
十数年前、引っ越しする日に僕は梨花を呼びだした。最後にキチンと自分の想いを伝えたかった。
待ち合わせ場所の公園で僕は緑が茂った木の後ろに隠れて梨花を待っていた。
梨花は公園に来たが、他の子どもも一緒だった。僕の告白を見抜いていた梨花は観客を連れてきたのだ。僕はその場にずっと隠れていた。梨花が僕を待つのに飽きて友だちと遊び始めた時も、みんなが帰る時刻になって帰って行くのも、じっと見つめていた。
梨花は笑っている。優しくて、明るい笑顔が素敵な梨花が僕を嘲るのを聞いてしまった。梨花どうして僕を裏切るのだ。絶望が胸いっぱいに広がる。
友だちと別れて梨花が公園から出て行こうとする。周囲にもう誰もいないのを確認して僕は姿を現した。
梨花は驚いて、それから走って逃げようした。
『ついてこないでよ、あんた気持ち悪いんだもん』
笑って、嗤って、梨花が走って僕から逃げる。顔には今まで見たことのない強い嘲りの表情が浮かんでおり、僕が知っている彼女の顔ではなかった。
“梨花!”
全身の力全てを使って僕は、生まれて初めて怒鳴った。
あれは怒りだったのだろうか。
醜く崩れた彼女が、元の梨花に戻るように僕は叱りつけたつもりだったのだろうか。今となっては僕自身にも分からない。
僕の声に驚いた梨花は体をすくませて、足をもつれさせた。背後にいる僕を見ながら走っていたので、彼女は背中から転んだ。
彼女の体は車道に落ちて――バンッと大きな音がして梨花がトラックに潰された。
僕の手から果物ナイフが落ちた。
そうだ、僕は梨花が好きだった。だけど梨花が僕を好きでないのも、陰で嗤っているのも知っていた。だから永遠に嗤わないように、優しい梨花で居続けられるように、梨花の唇を切り落とするつもりだった。
ふと手を見ると、子どものときと同じように僕の手から刀身が赤くなった果物ナイフが落ちている。
『―――だな――警視庁の――』
傍らに立っている影が僕の名前を呼ぶ。
『―――の容疑で――』
何かを言っているが僕の耳には届かない。
梨花、そうだった、梨花、君はもういないんだ。あの日トラックに潰されて、内臓が飛び出した君を僕は見たんだ。腰から上が別の生き物みたいに、離れてしまっていた梨花は口や鼻から血を流していた。
でも自宅にずっと引きこもっていた僕は成長した君を見つけた。家の前を颯爽と歩いていく君を見つけたんだ。
梨花……僕はもう一度、君に出会えた。
だから今度こそ、絶対に君と生きようと決めた。道ですれ違うたびに挨拶をしてくれた君は、きっと僕を覚えているに違いないと信じた。
だから、あの日僕は君が住む家に入って声をかけたのに。君は僕を拒絶した。
君は梨花じゃないのか?確かに梨花は内臓をぶちまけて一度死んだけれど、再びよみがえって僕を待っていたのではないのか?
あの日果たせなかった約束を、僕の告白を聞きにきてくれたのではないのか?
思い出の中にある梨花のように、表情を変えて怒鳴る彼女がいる。
唇を切り落とさなくては……怒鳴ったり、あざ笑ったりしない優しい梨花にするために。僕は果物ナイフを握り締めて、それから。
『立て!』
男が乱暴に僕の腕を引っ張る。体が揺れる。
『一カ月の逃亡生活も今日で終わりだ――』
あの日と同じように梨花は血で染まった。果物ナイフを握った僕に向かって、梨花は近くにあった灰皿を投げ付けた。それは僕の腹部に当たり、大きな痣ができた。
思わぬ抵抗をされたが、僕は力ずくで梨花の唇を切り落とした。剥き出しになった歯茎は綺麗な桃色をしていた。あの日、梨花の内部から溢れていた内臓みたいに。彼女は取り乱して、知らない男の名前を狂ったみたいに叫び続けた。浮気していたのだと知った僕は彼女を殴りつけ、踏みつけた後に、彼女が調理に使っていた延べ棒で滅多殴りにした。梨花は僕と結婚したのだ。だから、他の男の名前を呼んではいけない。
そうだ、僕は梨花と結婚して三年目を迎えて、念願のマイホームに二人で暮らしていたのだ。ああ、帰らなくては。彼女が、梨花が僕を待っている。
それなのに、見知らぬ男たちが僕を連れ去ろうとしている。
都会の夜に僕は飲み込まれていく。田舎の夜は静かで人の声すらろくにせず、僕らはのんびりと過ごしていたのに。
どうして僕は都会にいて、見知らぬ街の中で囚われようとしているのか。
誰か助けて、誰か。大勢の人々が通り過ぎていくのに、皆知らないふりをする。
冷たい都会の夜が僕を確実に捕えて、僕は梨花のもとへ帰る希望を絶たれた。
〈了〉
tokyo night exhibition
『Oxygen shortage/酸欠』
テーマ:tokyo night , 東京の夜
作者:藤森 凛