stigma

 ただ君は微笑む、ただ君は軽やかに歩く、ただ君は優しく話す。
闇に覆われた世界で君は光を信じている、光と共に在る。
「また醜くなりました」
 引きつれた頬と視力の無くなった右目を君はさすっている。
外は生憎の曇り空で室内は、どんよりとした暗さに包まれていた。
僕は昨日から続いている神経痛のせいで、ベッドから起き上がれずにいる。
部屋の片隅に設置された鏡台に向き合っている君の背中しか見えず、僕は想像で彼女の表情を読み取ろうとしていた。
鏡台のすぐ横には窓があり、薄曇りの鈍い光が君の半身をおぼろげに包んでいる。
「髪も大分かつらになってしまいましたの。あなたには見せられませんね」
 背中越しでも君が苦笑しているのが分かる。
いつでも、君は本当に辛い時に笑うのだ。
 最初、辛い時に笑うという行動が理解出来なかった。僕の生まれた場所では、人々の感情表現はあからさまなものだった。
辛ければ大声で泣いて、嬉しければ笑って、悲しければ唇を噛んで。
 だけど、君は微笑んだ。
どうしようもない悪夢のような宣告を、死刑宣告とも受け取れる医師の言葉を受けて微笑んだのだ。
「私の運命なのですね」
 何を言っているのだと言ってやりたかった。こんな理不尽な運命など存在するはずがない。
真っ当に生きてきた君が、こんなに苦しくて辛い罰を受ける理由などないではないか。
 それでも、病は君に圧し掛かり君を押しつぶそうとしている。
 此処に来たのは、真冬のことだった。
僕自身も君と同じ病だったから、互いに離れ離れにならずに最期の住処を与えてもらえたのは有り難かった。
もしかしたら、僕が君にうつしたのかもしれないとは恐ろしくて口に出来なかった。君は僕の弱い心を見抜くみたいに「私は自業自得でこの病に罹ったのですよ」と微笑んでくれた。
 あの時から、もう何年の月日が流れたのだろう。
分かり切っていたが、画期的な治療薬が開発されることもなく、患者の数は増減を繰り返し、僕らの病は無慈悲に進行していく。
 黒羽色の長い髪が美しかった君の髪の毛が抜け落ち、僕の鼻と目が異常をきたし、君の頬が麻痺によって引き攣れ、僕の行動を蝕む神経痛が始まり、僕らは此処へ来たときよりも大分具合が悪くなった。
 初めて出会った日のように、温かい陽射しの中を二人並んで、緑の並木道を散歩することなど出来そうもない。
僕の足は欠損があるし、君の足は萎縮し始めている。
「前世の罪業の因果を受けた者が罹る病だってお父さんに言われてしまいました」
 君は手紙を抱えて、困ったように眉を寄せて微笑んでみせた。
僕は君の手を握ることしか出来ず、気の利いた慰めなど衰えている脳みそはひねり出してくれなかった。
「でも、お揃いです」
 顔を上げると、いつもよりずっと寂しそうな君の顔が近くにあった。
「お揃いの傷痕です」
 涙が零れ落ちてくるのを抑えきれずに僕は泣いた。
なんて健気なひとなのだろう。不治の病に冒されて、お互い死にゆくだけだというのに、この女性は真摯な愛情を失わずにいる。
生きる希望すら失った僕の前で、細やかで高潔な愛の心を君は見せてくれた。
「スティグマ」
「烙印ですか、お揃いの……スティグマ」
 ふふっと君が笑う。引き攣れた頬は上がらないけど僕は君を美しいと心から思う。
スティグマは非惨な過去を持つ社会用語で、恋人たちが戯れに囁く言葉ではない。
だが、今だけはこの言葉を使いたいと思ったのだ。お互いに決して消えぬ痕を揃いでもつのを、たまらなく愛おしいと感じる。
 スティグマは元来、ギリシアで奴隷・犯罪人・謀反人であるのを示す焼き印・身体上の「しるし」のことだ。
のちにカトリック教会では、十字架上で死んだキリストと同じ傷が聖人に現れるということから『聖痕』の意味に転化した。
世界のどこかでは、私たちと同じ病に罹った場合、文字通りのスティグマをつけられることもあるようだ。
幸い、私たちは何もされてはいない。
 髪が抜けて、目が見えなくなって、四肢を失って、体を巡る神経痛に苦しんで、それらの全てが、僕らが揃いでもつスティグマなのだ。
「痛いけど、幸せです。あなたの傍で悲しくなれるのなら、私はそれが一番嬉しいです」
 鏡台からベッドの横にある椅子に座ると、君はまた微笑んで僕の頬を流れていた液体を拭ってくれる。
僕は力を振り絞って、君の手を握る。欠損した指があるせいか小さく感じられる。
「結婚しよう」
 君の眼が大きく開かれる。片方の瞳は兎眼になり真っ赤なままだ。
「健やかなるときも」
 体を無理に起こして君と視線を合わせる。
「病めるときも」
 僕らにこれほど似合いの言葉があるだろうか。
「病めるときも、ずっと一緒です」
 君が僕のぼろぼろの手を握り返してくれた。
ああ、涙が零れているじゃないか。君たちって本当に不思議だ。悲しいときに笑って、嬉しいときに泣くのだから。
「一緒にいよう。前世の罪を背負うのも、スティグマをつけられるのも、君となら僕は幸せだ。揃いの傷痕をもって天国へ向かおう。きっと永遠に一緒にいられるだろう。同じ印があるのだから、お互いを見失うものか」
 曇り空が割れて、光が部屋に入って来る。
 ほら、ご覧よ。
陽射しで創られたヴァージンロード。光の道を歩いて、僕らは神様の前でキスを交わすのだ。もうどんな障害も引き裂けはしない。
病だろうと、死だろうと、僕らを離れ離れにはできない。
 光が優しく降り注ぐ中、僕は君と頭を並べて横たわる。
「温かいですね」
 君の声が遠くなる。
「私、スティグマが嬉しいです。罪人でも構いません。あなたの隣にいられるのなら」
 ゆっくりと君の瞼がおりる。
「言葉が通じなかったのに今はあなたの言いたいことが、全て分かるような気がします……」
 私もだ、最初は何も分からなかった君の言葉が今では体に沁みわたるようになった。
「眠くなってきました」
 眠ろう、愛しい君よ。
光の道を歩いて辿りつく、愛の楽園はもうすぐ其処にあるのだから。




                    〈了〉

企画小説微糖様:『陽射し』提出作品



作者:藤森 凛


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