foretell the future.
分からないことなどこの世には存在しない。
分からないと目を背ける現象だけがある。
「つまり、分からないというのね」
黒い髪をかきあげて、切れ長の美しい瞳をした少女は大きなため息をついてみせた。
タイトな黒白のワンピースが均整の取れたスタイルを強調している。
「分からないわけじゃないさ。理解したくないだけで」
男はずれ落ちそうな大きな眼鏡を直して、女を見上げた。
椅子に座っている姿勢からでは、中年の男性といえどもまだ十代後半の少女と視線を合わせるためには首を上げなくてはならなかった。
「現象だろうが何だろうが、未来は存在するのよ。だったら理解できるでしょう」
皺くちゃの白衣とワイシャツ、よれたズボンの男は困った様子で、背後にあるパソコンの中に入っている研究の作業に戻りたいと考えていた。
大学で助教授をしている男の元に、いきなり知らない少女がノックもせずに彼専用の部屋に飛び込んできた。自分が受け持っている講座の生徒だろうか、と質問する前に少女は喋りだしていた。
「早くしないと殺されるわ。急いで助けに行くわよ」
「!?」
頭のネジがどこかへいってしまったのかと思ったが、それから話しだした少女の話は、さらに男を驚かせた。
「私は未来から来たの。ある人の命を救うためにね。そのためには、貴方の協力が必要なのよ」
一度にまくしたてると、少女は腕にはめていたデジタル腕時計に指を触れた。
すると、光の筋が時計盤から出現して一枚の地図が空中に現れた。
「本当はデータ化した地図が見やすいのだけど、この時代の人間はアナログな紙媒体にしか適応していないらしいから」
恩着せがましい言葉を口にして、少女は本や書類が散乱した男の机の上に地図を置いた。
「まず、大学がこの位置」
赤い丸で大学の位置を囲む。
「それから、これがターゲットのいる位置よ」
赤い丸でクルッと印をつけたのは、大学から数キロも離れていない地点だ。
「さ、急いで。早くしないと殺されちゃうわ」
「あのね、君。僕は君がどこの誰だか知らないし、誰が誰に殺されそうになっているかすら分からないのだよ。助けたくても助ける方法も分からない、無理な話だ」
黒白のワンピースの少女は渋い顔をすると、また腕時計に指を触れる。今度は小さな呼子笛のような物体が現れた。
「あなたっていつもそうよね……。どうせ私はそそっかしいわよ、嫌な人ね」
「はあ、僕は君とは初対面だけれど」
「ふんっ、まあいいわ。私が合図したらその笛を思いっきり吹いてちょうだい。それで全ては解決するのよ」
手渡された、色褪せた緑色の笛には変わった特徴は見られない。
「急いで!あのオンボロ車に乗って目的地まで行くわよ」
オンボロ車。男は目を丸くした。
彼が乗っているビートルは相当な年代物で、本人も周囲もオンボロ車と公言してはばからない。
だが、いくら年代物といえどもエンジンがいつも不調であろうとも、天下のビートル。彼の大切な愛車である。
「僕の車を知っているのかい?」
「悪趣味な赤い車でしょ!」
未来から来たのかどうかは判断できないが、少女が男に厳しいことだけは確かだ。
「未来で何があるか知らないけど、僕は君に嫌なことでもするのかい」
「先のことを教えるのは法律違反なの、答えられないわ」
答えてもらわなくても分かるよ、と内心で愚痴ると男はエンジンをかけて走り出す。
奇跡的に一度でエンジンはかかってくれた。目的地は少女が差しだした地図を見ただけで、すぐ覚えた。
「ちゃんと位置は分かっているようね。まあ、貴方の記憶力なら当然だけど」
昔から記憶力はいい方だった。その力は勉学に対してだけ存分に発揮され、彼は物理学の助教授の職まで辿りつくことができた。
家族は地方に住んでいる両親と姉夫婦だけ、未婚で、結婚の予定も相手もいない。私生活の全てを研究に捧げている人生だが悔いはない。
むしろ、ひとりは気楽だし、研究に没頭するのが男の幸せだった。
「次は右よ」
少女が鋭い視線を投げてくる。オセロみたいなワンピースの柄は見ていると目が痛くなってきた。
「本当に君は誰なんだい?病院から脱走してきたわけじゃなさそうだけど」
「呆れたわね。ここまで行動を起こしておいて、まだ信じてないの?分からないって言いたいわけ?」
「ああ、まあね。分からないっていえば分からないよ。名前すら知らないし、何をすればいいのかも」
「到着したわ!止めて」
思いっきり脚を踏まれて男は声にならない悲鳴をあげ、年代物の高級車ビートルも悲鳴を上げて急停止した。
外に目をやると、閑静な住宅街で、車のすぐ横には保育園があった。
子どもたちが砂場や広いグラウンドのスペースで自由に遊んでいる。昼食の時間帯のためか、人通りはない。
「この保育園に用事があるのかい」
「なければ来ないわよ」
車から降りると、少女は颯爽と保育園へ向かって歩き出す。後ろ姿を眺めながら、どうして自分はこんな馬鹿げた真似をしているのか男は考えていた。
通常なら絶対、相手にせず、最寄りの病院か交番に少女を託しただろう。ましてや殺されるだの、救うだの、大げさな話をしてくる辺りがどうにも胡散臭い。
理性では少女を否定しているのに、現実では言うなりになっている。
――何故だろうか?
長い黒髪が腰の辺りで揺れ、まっすぐに伸びた白い足が春の日差しに眩しい。
ふと、懐かしさを覚えて男はうろたえた。初めて出会った少女に懐かしさを感じるはずがないのに。
「ちょっと、いつまで車に居るのよ!早くこっちに来なさい」
小声で少女が声を荒げる。男は仕方なく保育園の門前まで近づいた。
促されて保育園の中を見てみると、走りまわって遊んでいる園児たちの中に、一人だけ和装の子どもがいる。
「紋付き袴とはね……親の趣味かな」
「あれがターゲットよ。目を離しちゃ駄目」
和装の子どもは、服装以外は他の園児たちと何も変わらない無邪気な子どもだ。
「あんな小さな子どもを殺そうとする奴がいるのかい」
男が眉をひそめてため息をついたのを合図とするかのように、遊具や建物の影から真黒な塊が飛び出してきた。何も知らない子どもたちは、マジックを見せられたような歓声を上げている。
「来たわ!早く笛を吹いて!」
事情など何ひとつ呑み込めていなかったが、男は急いで笛を吹いた。正体は分からないが、黒い塊に恐怖を感じたのだ。
汽笛のような笛の音が響くと、塊はひびが入り、影の中に破片を落として消えてしまった。
男は茫然としていたが、服の裾を握られて慌てて下を見ると和装姿の子どもが立っている。
「もうお帰りになる時間ですわ」
男に対する態度とは打って変わって、優しい声音で女は子どもに話しかける。子どもは素直に頷いた。
大学の自室に戻ると、女は腕時計に指を触れ、子どもが光の中へ消えた。
「あの子は一体?」
「過去のお偉いさんってやつね。歴史に干渉するわけにはいかないから、元の時代へ帰したの。この経験がもとでハイカラなものが好きな大人になるのは仕方ないわ。消滅するよりはいいでしょ」
「それって、まさか織田の」
「全部言わないで。歴史に干渉するのは禁止よ。貴方は貴方の役割を全うすればいいの」
少女はパソコンに近づき、おもむろに画面を叩いてみせる。
「僕の役割ってまさか、さっきの子どものタイムトリップといい……信じられないが、物体移動の研究が成功するのか?」
男の研究は物体を素粒子レベルまで分解し、自分が開発した装置で再構築させるものだ。特殊な配線を通して分解された物体を遠距離まで運ぶのが彼の目指すところである。
「成功するというか、いきすぎてしまうというのが正しいわね。物体どころか人体まで運べるようになるし、遠距離どころか時代まで越えてしまうのよ」
「それは壮大だな。でも、どうしてそんな未来のことを教えてくれるんだい?」
恐る恐るたずねると、少女の口が三日月型になった。
「それはですね、天津地先生。先生が暴走させてしまった全ての時代に設置されている、機械を止めるためです」
男の本名をさらりと口にして、少女がにじり寄って来る。
「先生は、自分以外の人間に機械のリセットをさせないように自分にしか吹けない『笛』をご自分で開発したのです。その『笛』でなければ、機械のリセットは不可能です。私が先生を探しに来たのも、これで納得出来たでしょう?」
「え、ええと、じゃああの黒い塊は」
「タイムパラドックス。過去で現代に存在する事象を改変した場合、その事象における現代の存在や状況、因果関係の不一致。矛盾が生じない場合でも、『バタフライ効果』によって些細な過去の改変が、最終的に未来に影響を及ぼす場合がある。もちろんご存じですよね」
にじり寄って来る少女の迫力に押されて、男――天津地は後方へ下がりだす。
「未来では政府に反感を持つ者や、自分たちで過去を好きなように変えて有力者になろうという地下組織が存在します。奴らは未来で自分達の障害になる人物たちを殺そうと動き回っているのです。あの黒い塊は奴らの道具で、自動追尾システムがあり、ターゲットを抹殺するようにプログラムされているんです」
「それは……すごいね」
段々、話が現実離れしてきて天津地は眩暈を覚える。
「奴らの道具も、結局は天津地先生が完成させた機械の構造を真似したものにすぎません。つまり、先生の力でのリセットが可能になるのです。仕組みは一緒ですから」
自分の首にぶら下げたままの笛を天津地は、じっくり眺めた。ただの笛どころか、とんでもない力を秘めた未来の物体だとは説明されても信じられない。
「これから色んな時代の先生に会いに行って、各時代に設置された機械を止めなくてはいけないんです」
「ううん、つまり僕は過去にも君と出会うことになるわけだね。だから懐かしい気持ちになったり、君の言う通りに行動してしまったりしたのかな」
突然、女の頬が赤くなった。
「な、何ですか!懐かしいとか言う通りとか……、別に私は過去の先生に何もしていません。私もう行きますから!誰かさんの機械のせいで忙しいんです!」
「楽しみにしているよ、また会えるのだろう?」
天津地が手を出すと、少し躊躇いながらも少女は手を握ってくれた。
それから数年後。
天津地は機械を完成させたのだが、それよりも彼を驚かせる事態が起きた。
機械の完成によって、脚光を浴びた彼にお見合い話が飛び交い、礼儀として断り切れずにお見合いすることになったさる大財閥の令嬢が、彼の目の前に座っている。
淡い桃色の布に色彩艶やかな牡丹の花が描かれた着物を身につけ、澄まして座っているが間違いない。
「黒依 白湖と申します」
あの時、彼女は名乗らなかったが、黒い髪に切れ長な瞳は見間違いようがない。
(分からないことはない。背を向ける現象だけがある、か)
分かっているのは、自分がこの少女を嫁に迎えなければきっと後悔するだろうということだ。過去に会っていないと背を向ける選択肢だってあるわけだが。
「よろしく、白湖さん」
天津地はとりあえず、彼女と出会う未来を選択した。
〈了〉
酸欠文化祭in2012:インテロバング企画作品
『Oxygen shortage/酸欠』
テーマ:インテロバング
作者:藤森 凛
foretell the future.(未来を予測する)