「え、」
「あ?」

反射的に、私はさっと手を上げた。
下げた時と同じように、その動きのまま世界の扉は閉じる。差し込んでいた眩しい光は消え、さっきまでよりも一層暗くなった気のする黒腔に立ち尽くして目を見開いていた。心臓がどきどきを通り越してばくばく鳴っている。口から何か出そうなほどの緊張感でどうにかなってしまいそうだった。

綺麗な金色の髪だった。
それはほんの一瞬だったのに、視線の合った瞳より印象に残っていた。肩にもかからない程度の短い髪の、切り揃えられた毛先が真っ直ぐだったのを覚えている。明るい光を弾いて、きらきらと光っていた。
仮面ではなく帽子を被っていた。白と灰色の服を着ていて、手に何か持っていた。私が驚いたように、彼もまた目を見開いていた。けれど、そんなことより何より。

―――逆さま、だった。

自分を落ち着けるように両手で頬を包みながら、私はぺたりとその場に座り込む。

それはもう間違いなく逆さまだった。私の髪は逆立っていなかったから、私が逆さまだったわけではない、と思う。いや、でも彼の髪も別に逆立ってなんていなかったのだから、彼もまた逆さまではないのだろうか。普段逆立ちしたとき私の髪は下に向かって引っ張られるけれど、人間は違うのかも。もしかしたら私達の逆さまが人間の普通なのかもしれない。けれど、もしそうだとしたらどうしよう。私が親近感を持って話しかけに行ったところで、逆さまの変な奴と話してくれる人間はいるのだろうか。ああ、違う。そもそも人間は私達のことが見えないんだった。

「……あれ?」

ぐるぐると考え込んでいた思考が一度そこで途絶える。顔を上げて今しがた扉のあった場所を見つめながら、私は首を傾げた。

そうだ、人間は私達のことが見えないのだった。全員が見えない訳ではないけれど、そういう者が大半なのだと聞いていた。ということはもしかして、今目の合った彼は人間ではないのだろうか。
人間でないのだとしたら、何なのだろう。死神?虚?でも仮面を持っていなかったし、黒い着物も着ていなかった。ギンや藍染サマ達は、虚圏へ来た当初は黒い揃いの着物を着ていたのだ。死神が着る服なのだと、以前ギンが教えてくれた。

「…………」

恐る恐る、私は空間に手のひらを当てる。そうっと爪を立てて、少しだけ空いた隙間から向こう側を覗いた。そして。

「っきゃあ!」
「おま、」

覗き込むように腰を屈めていた誰かと目が合った。
さっきの誰かだ。慌てて扉を閉めて、私はその場に立ち上がる。今度もやっぱり逆さまだった。暗闇の中で閉じた瞼の裏に、ちかちかと光る金色。全身が心臓になったみたいに鼓動がうるさい。私はぎゅっと強く目を瞑って、手のひらを握る。

お前、と言いかけたような声が聞こえた。さっきは思いもしなかったけれど、低い声だから多分男の人だ。呆れたように開いた口と反対に、逸らすことも許されないような強い視線が怖かった。

―――例えばもしも彼が死神だったら。

私は、殺されてしまうだろうか。死神は私達が嫌いなのだ。見つかったら殺されてしまうよと言われた言葉を思い出して、握った拳に力を篭める。
虚は人間を食べる。死神も食べる。だから死神は私達が嫌いだし、私達を見つけたら殺す。私がそうだろうとそうでなかろうと変わらない。

「……帰らなきゃ、」

独りごちて、数歩後退った。現世の空に眩んだ目は、もう黒腔の闇に慣れてしまっている。ぱちぱちと数回瞬いて、私は目を伏せた。

いつかギンが言っていた。人間も私達も死神も、カタチは大して変わらないのだと。
けれど、やっぱり私達は人間とは違うのだ。扉一枚隔てた世界の明るさが愛しかった。暗闇に溶けてしまう自分が悲しかった。

空間に指を這わせ力を篭める。ぐっと勢いよく下げると、向こう側はいつもの自分の部屋だった。ほんの少し躊躇って、私は元いた世界の方へ足を踏み出した。
後ろ手に扉を閉じ、ずるずるとその場にへたりこんで姿見に寄りかかる。ひんやりとした無機質な温度が手のひらに触れた。

「……、」

私が黒腔へ入ってから、大して時間は経っていないようだった。月はまだ空高くに登っていて、遠くで何かが鳴くような声が聞こえる。静かで穏やかな私の世界。
息をついてから手のひらを持ち上げると、小さく震えていた。その腕を抱くように私は俯いた。瞼の裏に焼き付いた金色が、ちかちかと点滅していた。

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