(ほらね、)



名前を呼ばれた気がして顔を上げた。辺りを見回したけれど、ぐるりと体ごと一周してみても誰も見当たらない。空耳かもしれない、と首を傾げて、私は視線を再び手元の橙色の実に戻す。

流魂街から少し離れたこの森は、子ども達の恰好の遊び場であり、大人にも嬉しい季節ごとの木の実の成る畑であり、そうして私のお気に入りの場所でもあった。私は暇さえあればこの辺りに来て木の実を取り、それを自分で食べたり他の人に分けたりしながら生活している。
最近は『ホロウ』が出るからと言って誰も近づかなくなったけれど、私はホロウに会ったことがないし、どういうものか分からないせいかあまり恐怖心がなかった。それで、最近はこの辺りにいるのは大体私一人というような感じだった。

手のひら大の橙色をもいで、前掛けの中にそっと落とす。左手で裾を掴んだ前掛けの中には、既にいくつか同じような実が入っている。とても美味しそうに見えるけれど、私はこれが渋柿だということを知っているので誘惑に負けて齧ったりはしない。そんな苦い経験はとうの昔に済ませていた。

「ひい、ふう、みい…7つ。あと3つくらい…」

指さしながら数えて、私は顔を上げる。少し高い位置にあるけれど、あと3つくらいなら手の届く範囲で取れそうだった。これを持ち帰って吊るして干し柿にするのだ。隣のミヨばあちゃんが好きなので、持っていくととても喜ばれる。

「あとあれと…」

緑の中にある橙を探しながら背伸びをしたところだった。
私の背後で、唐突にぶわりと風が起きた。同時に轟音が襲って、私は思わず両手のひらで耳を押さえる。ぼとぼとと支えを失った前掛けから木の実が落ちた。

びりびりと響くような音がおさまる前に振り向いた私の視界に化け物が入る。白い骸骨のような仮面と、体に空いた丸い穴。そして、その大きな体躯。見上げた私と見下すそれの視線がかち合って、背筋を冷汗が流れた。これがホロウであるということは、視界に入ったその瞬間から理解していた。

虚はもう一度大きな声で鳴いた。そこで漸く一度目の轟音が咆哮だったことが分かった。それは獣のように吠えるばかりで、一言も喋らない。喋れないのかもしれなかった。

じり、と後退った私の左足に落とした柿がぶつかる。体中から汗が出て、息が苦しかった。逃げなければならないということは分かっていた。多分言葉が通じる相手ではないし、話し合いで解決できそうな雰囲気ではとてもでないけれどない。虚は人間を食べるのだ。これから食べられる自分を想像して、私は何だか複雑な気持ちになった。どうしてそういう気分になったのかは、よく分からなかった。

虚が三度大きく咆哮した。口をこれ以上なく大きく開いて、私に迫ってくる。耳を両手で覆った状態で、私は立ち尽くしたまま動けなかった。逃げられない。見開いた目を閉じることすらできず、呆然とそれを眺めていた。スローモーションのように、虚の牙が、爪が、迫ってくる。ああ、これは死んだ。他人事のように思った。不思議と恐怖はなかった。

「―――阿呆」

けれども、私の体が鋭い爪に裂かれることはなかった。

目の前に降り立った白い何かが、私の視界から虚を隠す。思わず瞬きをした瞬間、白くはためく何かの向こうで虚が叫び声を上げた。それが断末魔だと理解できるまでに、その巨体は煙のように消えてしまった。再度瞬くと、目の前の白色が羽織であることに気がついた。真中に大きく書かれた、五の文字。恐る恐る視線を上げると、肩の上で切り揃えられた金色が目に入る。

「ったく、相変わらず鈍くさいのォ」

悪態をつきながら、それは振り返った。その鋭い瞳が私の視線と合って、すっと細められる。

「…何で、泣いてんねん」

言われて、私はぱちぱちと瞬いた。瞼が下りる度に目じりからぽたぽたと頬を伝って雫が落ちる。指先で触れると確かに濡れていて、それで自分が間違いなく泣いているのだということを理解した。あれ、と漏らした声が掠れている。
その人はしゃがみこんで、私の視線に合わせてくれた。

「怖かったんか」
「…いや、あんまり」
「ハァ?」
「死ぬかと思ったけど、…あんまり怖くは、」

金色の髪の人は、頭をがしがしと掻いて呆れた顔をする。私は手の甲で涙を拭いながら、首を傾けた。
死ぬと思った瞬間、恐怖はなかった。あの瞬間は何というか、もう諦めに近かったのかもしれない。どうにもならないと思った。痛いのは嫌だな程度にも思わなかった。おかしいのはその後だ。あの白いはためく布の上に、金色の切り揃えられた髪を見つけてから。胸が何だかもやもやする。この気持ちをどう説明したら良いのか分からなかった。

―――ああ、でも。

どういう説明をしたら良いかは、分からないけれど。
多分この気持ちの枠というか、ジャンルは分かる、気がする。

「何か、……嬉しくて」

擦った目尻から再び雫が滲んだ。どうやら私の涙腺は、私の意志を離れてしまっているらしい。けれども私自身、理由は分からなくとも何となく涙が出るくらい嬉しいような気持ちではあるので、どうしようもなかった。
その人はきょとんと眼を開いてから、にぃっと笑った。何だかとても優しい笑顔だった。
そうして、しゃがみこんだまま私の頬に両手を添えて、「擦んな」と呟く。

「あんま擦るとぶすになんで」
「………」
「ほれ、特別にたいちょーさんの胸貸したるし、泣くんならこっちにしぃや」
「…涙止まりました」
「お前ほんと空気読めんな」

呆れた顔なのに何でか楽しそうな笑みを浮かべて、その人は私の頬からそっと手を離す。よっこらしょ、とおじいちゃんみたいな掛声と共に立ち上がって、私の目の前に右手を差し出した。私は少し首を傾げてから、その手を取る。ぐい、と引っ張られて、抜けた腰ごと立たされた。

「お前、名は」
「え」
「俺は平子真子」
「シンジ?」
「…せや。お前は?」
「私は、」

名前を告げようとして口を噤んだ。なぜか自分の名前がすらすらと出てこなかった。口を閉ざした私を見て、彼は怪訝そうに眉を寄せてから、首を傾ける。そうして少しの間考えて、私を見下ろした。見上げた瞳は、綺麗な色だった。

「ナマエ」
「……え、」
「俺はちゃんと、待ったるで」
「あの、私は」
「ちゃんと覚えとる」
「……」

それは名前のようだった。けれどもそれは私の名前ではないし、音からすると外国の人の物のようだ。人違いだろうか。焦って口を開くも、かぶせるようにして零れた声にかき消される。

「けど、はよしぃや」
「…何を、」
「俺は言うた以上は待っといたるけど、あんま気ぃ長くないねん」
「…………」

人違いなのに急かされている。
困って眉を下げれば、彼はニィと口端を上げた。

「せやから、まずはオトモダチからいこうや」

その細めた瞳を、日に輝く金色の髪を、私は多分永遠に忘れないだろうと思った。


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