嵐みたいな夢



ひらりと羽織ったそれをつまみ上げながら、鏡の前に立つ。正面から見ても後ろを映しても穴は見えない。フードを深く被れば、額に乗っている仮面も見えない。よし、とひとりごちてから、私はもう一度鏡の中の私を見つめた。くすんだ藍鼠色の髪が鈍い光を弾く。

「……、」

私は通常虚圏から出ない。私程度の者はここに居るだけでお腹が満たされるし、それ以上の者は大抵の場合人間の魂魄などでなく虚を食べるのだ。理由は違えど虚圏を出る必要がないという事実は同じだった。
故に元々私達には、ここを出てはいけない、などという決まりごとなどなかった。以前までは。

現状私達は藍染サマの下に統制された、仮にも組織だった。虚夜宮には今までになかった決まりがあり、破れば罰せられる。そしてその約束の中には、破面は許可なく現世に出てはいけないというものがあった。何故?とギンに聞いたとき、彼は困ったように首を傾けながら「キミ達がちょっと顔出すだけで色々面倒な人たちが出てくるんよ」と言っていた。死神のこと?と聞くと、曖昧な答えが返ってきた。

『死神ってとっても迷惑なのね』
『まぁ、否定はできんなぁ』
『死神は何で私達が嫌いなのかしら』
『そら人間を襲うからやろね』

はたと動きを止めた私がぱちぱち瞬くと、彼は面白そうに笑った。お人形みたいやなぁ、とからかうように言われて、私は口を尖らせた。

そうだ、虚は人間を襲う。襲ってその魂魄を喰らう。同じ魂魄体である死神を襲ったりもするというし、霊力の高い人間同様それは美味なのだと聞いたことがあった。ああ、そんなの嫌われて当然だ、と私はぼんやり思った。捕食者側がそれで「好きになってほしい」なんて言ったところで、そんな言が通るはずがないことくらい想像出来た。そしてそれは、心底残念な事実だった。

『人間の魂魄って、美味しいんですって』

不満げに呟けば、大して興味もなさそうな「へぇ」という返事がある。それが尚の事不満で、私は彼の袖をぐいと引っ張った。振り向いた彼はいつもどおりのにこにこ顔だった。彼と私達は違うのだ。彼は私の知らないことも知っている。きっと、私のこの気持ちさえも。


鏡の中の私は緊張した面持ちだった。あまりに表情が硬かったので思わず鏡に触れると、ひんやりとした硬い感触が手のひらを通して伝わった。それでほんの少しほっとする。鏡の中の私は少しだけ目を伏せて、同じように私の手に触れていた。

「……、よし」

小さく呟いて顔を上げる。髪よりも青い瞳と視線が合って、私は頷いた。
タイムリミットは1時間といったところだと思う。それが恐らく限界だ。上手くすれば誰にも気づかれないし、気づかれても何とか誤魔化せる時間がそれくらいのはずだった。深く息を吸い込んで吐きだし、鏡に触れた指先に力を篭める。


『ねぇ、ギン』
『んー?』
『何で虚って、人間の魂魄を食べるのかしら』


ぐっと爪を立てると、指先に空間が引っ掛かった。そのままそうっと下に下ろすと、私一人が入れる程度の小さな穴が出来る。黒腔と呼ばれるそこに行ったことは、実は殆どない。あったとするなら恐らくそれは私が仮面を剥がれる前の話で、その頃の記憶はごちゃごちゃとしていてあんまり覚えていなかった。毎日同じことを考えて生きていたように思うのに、仮面を剥がれた途端私はそれを忘れてしまったのだ。焦燥感のようなものを感じていたはずだったけれど、何故そんな風に思っていたのか分からなくなってしまった。


『虚は心を失っとるんよ』
『ココロ?』
『穴が空いとるやろ。そこにあったもん』
『それが欲しくて人間を食べるの?』
『言う話やけど、そのへんはボクよりキミの方が詳しいんちゃう?』


私の感じていた焦燥感は、ココロを求めていたからなのだろうか。じゃあ、まだ穴は塞がっていないのに私がそれを感じなくなったのは何故なのだろう。それとも焦燥感はまた別のもので、いつも何か足りないと思うこの気持ちがココロを求める気持ちなのだろうか。


『ねぇギン、』
『んー?』
『ココロって何?』

彼は『さぁ』と首を傾げた。私はそれ以上尋ねなかった。


「……」


その空間を前にして、再び息を吸い込んだ。細く長く吐き出して、高鳴る胸に手を当てる。永遠にここを出ようだなんて思っているわけじゃない、なんて何百回も繰り返した言い訳を頭の中で呟いた。そうすれば生きていけない自分も自覚していた。

それでもただ一度。一度でいいから。

空間を掴んだ手に力を込めて、私はその穴に身を躍らせた。轟々と響く波のような音が聞こえた気がした。

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