「―――ナマエ」

不意に響いた声に、私はぴくりと肩を揺らした。廊下の高い天井に木霊して何度も呼ばれたように錯覚する。この声が私の名前を紡ぐことは滅多にない。前回がいつだったかなんてもう思い出せないほど前だ。何度呼ばれてもこの緊張感に慣れることは無いだろうと思う。

「藍染、さま」

足を止めた私に彼は笑顔を浮かべてみせたけれども、私は一つも安心出来ず背筋を正した。口端を上げたその表情は間違いなく笑顔なのに、何故か全然そんなふうに見えない。これならばギンの方が余程にこやかだ。

ギンは今日も帰ってこなかった。ここ何日かをずっと部屋に閉じこもって過ごしていた私は、そろそろ部屋でぼんやりするのにも飽きて、チルッチかシャルロッテの部屋へ行こうと宮殿の中をうろうろしていたところだった。
彼がゆっくり私に近づいてくる足音が廊下に響いていた。こつ、こつ。一歩ごとに近くなる距離に、背筋が寒くなる。彼に何かされたことなんて無いのにいつだってそうだった。私はこの人が、恐ろしくて仕方ない。

「こうして話すのは久しぶりだね。元気だったかい?」
「は、い」
「君はギンにばかり懐いているから。たまには私のところにも遊びにおいで」
「そんな、……おそれ多いです」

考えて一つ一つ言葉を選びながら口にする。気にすることは無いよ、と穏やかな口調で彼は言った。私は曖昧に笑って首を竦める。そんなふうに欠片も思っていないはずのに、さらさらと出てくる言葉に目眩がしそうだった。

「あの、何かご用でしょうか?」
「用がなければ話しかけてはいけないかい?」
「あの、いえ、そういう意味ではなくて…!」

首を傾けた私に、顎に指先を当てながら藍染サマも首を傾げる。返された言葉に慌てて首と手を振ると、彼は悪戯っ子のように笑ってから、「意地悪を言ったね」と謝ってくれた。

「そう。用事があったんだ。ナマエに」

誰もいない廊下に、藍染サマの低い声が響く。背の高い窓から月明りが差して、彼の姿を照らし出していた。彼は穏やかな表情で私を見下ろしている。その光景に、背筋を冷たい汗が流れた。震えそうになる体を必死で押さえ込んで、私は彼を見上げた。見上げるしかなかった。視線を逸らすことなんて、できない。

「近いうちに、尸魂界と大きな戦争がある」

藍染サマは低い声でそう言った。ソウルソサエティ、と口の中で反芻した私に頷いてみせる。

「ここも恐らくは戦場になるだろう。だから君には、私達について現世に来てほしい」
「現世に…?」

呆然と繰り返した私の声に、藍染サマは困ったような笑みを浮かべた。

「正確に言えば現世ではないかもしれない。空座町という小さな町なんだが…尸魂界側がレプリカを作っていてね。普通に攻め込めばどうやってもそちらに誘い込まれるだろう。本物は精巧な技術で隠されている」
「ニセモノだと分かっていて、行くということですか」
「それそのものは偽物でも、場所は本物だからね。向こうの細工を壊せば、本物が戻ってくるよ」

私は少し視線を落とした。カラクラチョウという音に聞き覚えがないので、それがどこを指す言葉なのかわからない。話の流れからするに、藍染サマはおそらくそこが欲しいのだろう。ソウルソサエティがわざわざニセモノを作っているということは、それだけ重要な場所なのかもしれない。ここも戦場になるということは、向こうはカラクラチョウに攻め入った私たちを迎え撃った上で、こちらに攻め入ってくるということだろうか。

「………」

私はあまり戦闘に慣れていない。能力としては虚夜宮にいる破面の中で最下位だろうと思っている。ろくに戦えもしない私を連れて行ってもらっても、戦闘の役に立つとは思えなかった。
けれども虚夜宮すら戦場になるのならば、行っても残っても変わらないということだ。どちらに居ても、私は役に立たない。

「…怖いかい?」

黙り込んだ私に、藍染サマが小さく訊ねた。私は首を振って答えた。
ここにいる以上、いつかはそういうことになるのだろうと思っていた。私は藍染サマに仮面を剥がれた。他の多くの破面のように能力の高くない私を、同じようにお城に住まわせてくれている。こんな役立たずな私でも数の一つに入れてもらえるなら、戦うことだって怖くない。

気になっていることは他にあった。けれどもそれを直接藍染サマに訊ねることは気が引けた。視線を逸らした私に、彼は「聞きたいことがありそうだね」と笑った。この人に隠し事は出来ないのだ。悟って私は俯いていた視線を恐る恐る上げた。

「あの、…藍染サマは、死神だったのですよね?」
「そうだね」
「自分と同じ人たちと戦うのは、こわくないのかなと思って」

私の言葉に、彼は少しだけ目を細めた。笑っているのだ。彼は私の頭に手のひらを乗せてぽんぽんと跳ねさせた。再び視界が俯いて、私はそれ以上訊ねるのをやめた。

「怖くないよ」
「…………」
「あそこに私の望むものはないからね」

藍染サマは低い穏やかな声で静かにそう言った。その一言で、彼には迷いがないのだと理解した。
私は一度目を閉じてから、再び目を開けて彼を見上げた。

「出陣の、準備をします」
「よろしく頼むよ」
「私でもお役に立てるのなら」

頭を深く下げた私は、踵を返す彼の足元しか見えなかった。そのまま彼の足音が聞こえなくなるまで見送って、私は顔を上げた。窓から差し込む月の光が冷たく辺りを照らしていた。

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