「―――何て顔してんのよ」

呆れたようなイライラしているような声が降ってきて、私は顔を上げた。俯いていた視線が上向くと同時に不機嫌そうなチルッチと目が合う。仁王立ちする彼女に「顔?」と訊ねると、彼女は指先を私のおでこに当てた。

「チルッチ痛い…。爪ささる…」
「ひっどい顔。何がどうしたらそんなことになんの」

トントンと人差し指で突つかれて、私はおでこを押さえながら身を引いて逃げる。彼女は深追いはせず、不機嫌そうな声で「ブッサイクねぇ」と言った。

「ひどい…」
「ひどいのはどっちよ。勝手に人の部屋に入り込んでジメジメされるこっちの身にもなりなさいよ」

カビでも生えたらどうすんのよ、と続け様に言う彼女に、呻き声以外返す言葉もない。

出陣の準備なんて言っても、私には整理する私物も用意する武器も無かった。藍染サマには大仰なことを言ってしまったけれど、部屋に戻って息をついて、懐に短剣を入れてそれでおしまい。あとはもう、出発の知らせが来るまで待つのみだった。
私は懐に入れた短剣が落ちないように二、三度服の上から叩いて、それから部屋を見回した。寝台と、鈍色の姿見があるだけの部屋。がらんとしていて、きっと私がいなくなればそのまま誰か別の人の部屋になるのだろうと思う。それは寂しいように思うけれど、実際そうなったときには私はもういないのだから、寂しいとも思えないのだろう。
ぼんやりそう考えてから、私は部屋を出た。お城の中は慌ただしく色々なものが動いている音がした。みんな戦の準備をしているのだ。私は誰の邪魔にもならないようにこっそりとチルッチの宮に急いだ。たった一人でこの後の時間を過ごすことは、耐えがたかった。

「アンタ、現世に行くんですって?」

低い声でチルッチが言った。ぴくりと肩が震える。反応に困って笑うと、彼女の眉間に皺が増えた。

「何でアンタが」
「お城に残していっても役に立たないからじゃない?」
「バカ言ってんじゃないわよ。連れてっても役に立たないでしょ」
「ひどい……」
「アンタの為に言ってやってんのよ」

はは、と漏れた笑い声が乾いた天井に響く。彼女の閉じた唇に力がこもったのが見えた。

「チルッチは?」
「…アタシはアンタと違って優秀だから、このままここの守りよ」
「おおー、さすが!」
「…………」

ぱちぱちと手を叩くと、彼女は私の頭を開いた手のひらでスパーンと叩いた。それが手加減なしの思い切りの攻撃で、思わず頭を押さえ込む。本当に痛い…。涙目で呻く私の頭上から、押し殺したような声が降ってきた。

「怖いなら、逃げなさいよ」

私は俯いたまま笑った。笑ったつもりだったけれど、実際は口元がおかしなふうに歪んだだけだった。自嘲にもならなかったかもしれない。そうしてそれは、彼女には見抜かれているようだった。

「びくびくしてる奴が一番士気を落とすのよ」
「………」
「アンタなんてどうせ居ても居なくてもおんなじだわ」

私は俯いたまま、胸の上を押さえた。カシャンと小さな鈍い音が響いて、短剣が存在を主張する。私が戦うための唯一の武器。私はこれから、会ったこともない死神相手にこれを振るうのだ。戦うことは怖くない。けれど。

「…死ぬって、どんな感じなのかな」
「そんなもん覚えてないわよ。どうせアンタもそうでしょ」
「………」
「覚えてられない程度のことよ」

チルッチはフン、と苛立たしげに息を吐いた。

「死ぬのが怖いなんて下の下だわ。今のうちにとっととどっか行きなさいよ」

私は顔を上げて首を横に振る。

「藍染サマに、いただいたものを返さなくちゃ」
「馬鹿ね。あの人がアンタにそんなレベルのこと期待してるわけがないでしょ」
「それでも、」

虚だった時のことは、ぼんやりとしか覚えていない。けれどもいつも何かを探していた気がする。いつも、何かが足りなかった気がする。
その足りない感じが何だったのか、私はもう思い出せない。

「私チルッチのこと好きよ」
「…何よ突然。気持ち悪い」
「私、チルッチもシャルロッテもギンも、みんな好きなの」

チルッチは眉間に思い切り皺を寄せて私を見下ろした。その鋭い菫色の瞳が好きだった。口端を弓のように上げて笑う笑顔も、きつい言葉も、全部。
私が探していたものが何だったかなんて覚えていないけれど、もしもそれが仮面を剥がれたせいでないのなら。

「戦うのは怖くないよ。…死ぬのも、嫌だけど、怖くないの」

小さく笑ってみせると、彼女の瞳が更に剣呑な色に染まった。そういう表情も、とても綺麗で大好きだ。本当にとても、好き。

ギンが笑ってくれる世界。チルッチがいて、シャルロッテがいて、静かで穏やかな、優しい私の世界。
戦うのも死ぬのも怖くない。嬉しいか嫌かで言えば嫌だけれど、そもそもギンによれば私は一度死んでいる身のはずだし、それはチルッチの言う通りその程度のものなのだと思う。

―――二度と会えなくなる人には、何て言って別れたら良いのだろう。

それはつい先日、あの青い空の真ん中で考えたことと同じだった。また会えるか、と言った金色に返した、素っ気ない言葉。本当は、なんて絶対に言ってはいけない言葉だから、仕舞い込んで隠してしまった。だって私は。

「辛気臭い顔してんじゃないわよ」

彼女は一瞬で手を振り上げて振り下ろした。大きく開いた手のひらが乾いた音を立てて私の顔面を覆う。思わず上げた悲鳴に、軽く笑った声が聞こえた。覆われた視界で見えなかったけれど、見えなくても浮かんだ笑顔に私は眉を下げた。

「アンタなんて、どうせ泣きながら帰ってくんのがオチなんだから」

彼女の弓のように上がる口元が見えないのが、残念だった。

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