冷たく触れる



そうして私は、私の優しい世界に戻ってきた。

座り込んだ床がひんやりとして気持ちいい。頬を寄せた寝台は寝るには硬いけれど、こうして寄りかかっている分には十分に柔らかかった。どれくらいの時間そうしていたのか分からないくらいの時間、私はそこでぼんやりとしていた。

結論から言えば、私が部屋に戻ってくるところを目撃されることはなかった。ギンはまだ帰ってきていなかったし、他の破面が私の不在に気が付いた様子もない。そっと扉を開いたあの時と変わらず、静かで穏やかな私の世界のまま。

―――もう、現世には行かない。

目的は果たした。私は現世の世界を見ることができたし、遠目からだけれど少し人間を見ることもできた。賑やかな音と、声と、明るい光に溢れた世界。禁を犯してでも見たかったものたち。
空が青かった。どこまでも高く抜けるような色で、言葉を失うほど美しかった。例えば人間を見ることが叶わなかったとしても、それだけで十分だと思えるほどに。

―――なのに、どうして。

どうしてこんなに、胸が痛いのだろう。

「…………」

首を反対側に傾けて、私は再び寝台に頬を寄せた。先程とは反対側の白い壁が目に入る。その隅に置かれた、鈍色の鏡。
窓から差し込む月の光が、ぼんやりと部屋を照らしている。鏡は薄くそれを跳ね返していた。銀色の光。

ああ、そういえばギンに聞いていたハナは見られなかった。ばたばたしていて、探そうとさえ思わなかった。それは勿論残念ではあるけれど、考えてみても胸の痛みとは全然関係がなさそうだ。
けれども何故ハナを探す余裕がなかったのだろうと考えを巡らせると、ずきんと胸の奥が痛んだ。私は重い頭を起こして自分の体を見下ろす。皆とお揃いの白い衣。首のところについている金具を引っ張ってそっと下に降ろすと、まん中からするすると布が分かれていく。そうして胸の中心に空いている真黒な穴が姿を現した。

そこは空洞だ。覗き込んでみても、鏡で正面から見ても、背中の白い布が見えるだけ。向こう側を見て通す穴。指先を差し込んでも、どこにも触れない。

―――何にもない、穴。

私はそっと手のひらでそこを押さえてみた。穴の淵には触れている感覚があるのに、真ん中には触れなかった。私は手のひらを外して人差し指を立てる。細いそれを穴の中央に差し込んでみたけれど、やっぱり何にも触れない。
ここに私の『こころ』があったのだ。ギンはそう言っていた。私がなくしたこころというものがどういうものなのかなんて自分にも分からない。こころがあった頃のことなんて覚えていなかった。

ここにいる人たちはみんなどこかしらに穴を持っている。だからそれを持つことに抵抗も劣等感も感じない。穴のないギンにあこがれはするけれど、埋めてしまおうだなんて思わない。あって当たり前のもの。みんなと私が同種であるという証明。
こころが無くってもおなかは空くし、おしゃべりを楽しめるし、たくさんのことを知りたいと思う。だから私は別にそれを気にしたことなんてなかった。こころなんてあってもなくてもきっと同じだ。だって今それを持たない私は、それでも何の問題もないもの。別段ほしいとは思わなかった。

「……へんなの、」

呟いた声は私自身に届くぎりぎりの音で、すぐに部屋の静寂に溶けて消えてしまった。私は真っ黒い穴をじっと見下ろして、ゆっくりと瞬いた。

いらないと思っていたもの。必要ないと思っていたもの。気にもしなかったもの。
それがこころだったはずだ。なのに。

「…無いはずのここが、痛いなんて」

顔を上げると、窓の丁度真ん中に月が昇っていた。冷たい光を見上げて、私は目を閉じた。瞼の裏に浮かぶ金色はあたたかかった。

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