怪訝そうに眉を顰める金色を見上げて、私は首を傾けた。彼は何か言おうと口を開きかけて、私を見てからハァー、と長く息を吐いた。おや。この感じは知っている。私の周りの人達が、私に向けて一様にしてみせる溜息だ。私はむっと口を尖らせる。
そりゃあ二度も目が合った瞬間に逃げるっていう失礼な態度をとってしまったけれど、誠意を持って謝ったし、きちんと名乗ったのに。そんな風に溜息をつくあなたの方が失礼じゃない、という言葉を飲み込んで、私はもう一度彼を見上げて訊ねた。

「あなたは、だれですか」

私の問いかけに、彼は意図を量るように目を細めた。口が半開きだけれど、真っ直ぐに並んだ歯が見えるだけで舌の赤味は見えない。他人の歯並びなんて気にしたことはなかったけれど、この人は綺麗に生え揃っていて驚いた。
返答を待ちながら、私はほんの少し片足を引いて身構える。この人がもし死神だったら。そうでなくとも、害意を持つ人なら。ここで戦闘になると霊圧を押さえられないし、外部の者と戦ったことのない私に勝機があるとも思えない。だからもしものことがあれば、とにかく一歩離れて黒腔へ逃げなければならない。そうでなければ良いのにと願う自分もいて、それが判断を鈍らせないかが心配だった。

「…ナマエっちゅーたか」

低い声で、彼は私の名前を繰り返した。ぴくりと震えた私を見下ろして、彼は口端を上げてみせる。どくん、と心臓が鳴った気がして、胸の上の拳に力を込めた。緊張、しているのかもしれなかった。

「平子真子」
「…え、」
「俺の名前。平子真子っちゅーんや」
「ヒラコシ?」
「区切る場所ちゃうわ。ひらこ、しんじ」
「ヒラ…」
「真子でええよ」
「シンジ?」

首を傾けていると、彼が呆れたように笑って言った。シンジ、ともう一度繰り返すと、彼は「何や」と返事をくれる。それがうれしくて、私はもう一度名前を呼んだ。彼は笑いながら「用ないんか」と言った。名前を呼ぶ度に初めて感じる温かいものが胸の中をいっぱいにしていく気がした。この気持ちの名前なんて知らない。けれども、ふわふわとして、やさしくて、ほんの少しどきどきする。

「シンジは、死神?」
「!」
「…死神なの?」
「ちゃうで。死神やない」
「じゃあ人間?」
「人間ともちゃうな。どっちでもないわ」

身構えながら訊ねた言葉に、彼は困ったように片方の眉を上げた。死神でも人間でもない。得た回答に、私はふーんと唸る。彼からはほんの少し虚の匂いがするけれど、穴も仮面もないから虚ではない。どうやらまだまだ私の知らない生き物はたくさんいるらしい。

「ナマエは?」
「え?」
「死神なんか」
「!ううん、死神じゃない」
「なら虚?」
「違う、かな」

聞き返されて、私は小さく首を傾けた。私は厳密には虚ではない。仮面を剥がれた瞬間に、私は破面という生き物になったのだ。死神に比べれば虚に近いのだろうけれど、虚に比べれば死神に近い。どっちつかずの生き物だ。
眉を下げて小さく笑うと、彼は私と同じようにふうん、と唸った。

「せやったら俺とおんなしやな」
「おんなし?」
「人間でも死神でも虚でもないやつ」
「!そうね、おんなしね!」

彼の言葉に、私は何だか嬉しくなって両手を叩いた。ずっと近づいてみたかった金色と『同じ』というのはとても嬉しかった。彼がどういう生き物なのかはよくわからないし、本当の意味では私と同じではないのだろうけれど、そんなことどうでもよかった。そういう風に金色自身が言ってくれたということが、一番嬉しいことだった。

「で?ナマエはこぉんな高い所で何しとんねん」
「えっとね、シャカイカケンガク?」
「何やそれ」

私はシンジの向こう側の景色を覗き込むように体を傾けて慎重に答えた。私が虚圏から来たことは、多分内緒にした方が良いのだと思う。虚でないとは言ったけれど、虚圏から来たと言えばそれを信じてもらえなくなるかもしれない。せっかくこうしてお話が出来た金色と、そんな形で決別するのは嫌だった。出来れば穏便にさよならをしたい。どうせもう二度と会えなくなるのだから。

「人間をね、見に来たの」

彼の目を見ながら言葉を選ぶ。その表情に少しでも不穏な動きがあれば、すぐに駆け出せるようにしようと思った。けれども彼は私の意に反して眉一つ動かさず、そうか、とだけ呟いた。それを少し意外に思いながらも、私はどきどきしながら別の質問をする。

「シンジは、今日は逆さまじゃないの?」
「は?」
「最初に会ったとき、逆さまだったでしょう」
「あー、俺逆さま得意やねん」
「変なの」

けらけらと笑うと、彼は「何もおかしないわ」と口を尖らせた。その表情が面白くて、私はさらに笑った。
青い青い空の上で、私達は話していた。そのまま浮かぶような気持ちだった。私は彼にいくつも質問をした。どうして逆さまが得意なの、とか、どうやって逆さまになっているの、とか。
彼は嫌がらずに一つずつ答えてくれた。適当に誤魔化されたようなものもあったけれど、別に構わなかった。返事をくれるだけで、とにかくうれしかった。

ずっと話していたいと思う自分と、残り時間を気にする自分が頭の中でぐるぐる回る。黒腔を出てどれくらい時間が経っただろう。まだ30分も経っていないはずだけれど、こちらに長くいればいるほど危険性は増す。そもそも前回と同じくらい、本当に少しの時間覗く予定だったのだ。目が覚めた時に私を覗きこんでいたギンの顔が脳裏を過った。私を起こしてくれた彼の、優しい表情。

途端に私は不安になった。このままここにいていいわけがない。あまりに帰還が遅くなれば、誰かが私のいないことに気が付いてしまうかもしれない。私を探してくれる人なんて普段はいないけれど、こういうのは得てしてタイミングが悪いものなのだ。例えばもしも、黒腔から戻った瞬間を誰かに見られてしまったら。

―――ギン、

目の前に立つシンジが、怪訝な表情を浮かべた。どうかしたんか、と聞かれて、私は私の表情が驚くほど硬くなっていたことに気が付いた。

「…私、そろそろ帰らなくちゃ」

絞り出すように言うと、彼は少し首を傾けてから「そうか」と言った。引き留められたらどうしようかと思ったけれど、そもそも彼は私の立ち話に付き合ってくれていただけなのだ。引き留められるはずないのだということに思い至って、私は目を伏せた。一喜一憂するのが馬鹿みたいだった。

「じゃあね」

また、なんて間違っても言えず、私は片手をひらひらとさせた。これが最後だ。もう彼には二度と会えない。けれども、二度と会えない人に向けたさよならなんてしたことがなかった。何て言ったら良いかなんてわからなくて、出てきた言葉がそれだった。
彼が「おう」と同じように片手を挙げたので、私はくるりと踵を返した。扉を開けて閉めるまでに、もう一度シンジの姿を見てしまえば二度とここへ来ない決心が鈍る気がした。

「また会えるか?」

背を追ってきた低い声に、私はぴくりと肩を揺らした。彼がその言葉をどういうつもりで口にしたかなんて知らない。だから、どんなふうに返すのが正解かなんてわからなかった。嬉しいのと悲しいのと苦しい気持ちがない交ぜになったような複雑な気持ちで、私はもう一度「じゃあね」と呟いた。それは彼にとっての答えになるのだろうか。

空の中央に指をかける。ぐっと引き下ろすとすぐに私一人がくぐれる大きさの扉ができる。その向こう側に飛び込んだ直後、扉は自動的に閉じた。暗くなった黒腔の中で、私は両手で顔を覆った。最後まで振り向かずにいたから、彼がどんな表情をしていたかなんて知らない。それで、良かった。

prev next