眩しい光に細めた目が段々と慣れて、視界いっぱいに青が広がる。思わず感嘆の息が漏れて、私は無意識に指先を下げた。さっと開けた扉は私一人が潜れる程度の大きさだ。深呼吸をしてから唾を飲み込んだ。外套の上から握った拳を胸に当てる。どきどきと鳴る心臓の音が、黒腔の波の音すら消してしまいそうだった。
そうっと持ち上げた足で、一歩を踏み出す。何もない空間に足を着くのは少し緊張したけれど、現世も薄いながらに霊子があるようで、足場は崩れずにちゃんと両足で立つことができた。

「わぁ…」

口をついて出たのは意味を成さない声だった。この光景を前にしたらきっと、誰も言葉なんて出てこない。私は胸の上に置いた拳に反対の手のひらを乗せてぎゅっと握り込んだ。
ギンの言った通り、現世は青かった。透けるような空の下に所々白くてふわふわした何かが浮いている。お日様が照らす世界は月の世界と反対に暖かく明るい。足元には人間のものだろう家々がたくさん広がっていて、中空になぜかいくつもの紐が引っ張られている。低い音や高い音や、笑い声や話し声が聞こえた。賑やかな音に満ちた世界。

私は暫くその場に立ち尽くして、呆然としていた。情報量が多すぎて目も耳も追いつかない。息をすることも忘れて、ただただ見入っていた。

―――これが、現世。

前回来た時には本当にちらりと覗いただけで、空が青かったことしか覚えていなかった。今回も黒腔の中から窓だけ開けて覗くつもりだったのに、思わず外に出てしまったのはあまりにもその青が美しかったからだ。どこまでもどこまでも高い青に、差し込む光。夜の世界とは違う、昼の世界。

―――こんなに、綺麗だったなんて。

きっとそうなのだろう、と想像していた。けれどもそれは想像以上だった。ふっと止まっていた息を吐き出して、私は拳を握り直す。
これが見られただけでも良かった。金色には出会えなくても、それだけで来る価値があった、と思う。どきどきと高鳴る胸を押さえて私は唇を引き結んだ。しっかりと目に焼き付けておこう。二度と来られないかもしれないこの場所を、忘れないように。そう思って、瞬きをした瞬間だった。

「…っお前、」

背後から聞き覚えのあるような声が聞こえて、私は咄嗟に振り返った。そうして、再び呼吸が止まるのを感じた。

白と灰色の現世のものだろう衣服に、頭に乗せられた帽子。鋭い視線に射竦められて、耳元で心臓の音が聞こえた気がした。あなたは。驚嘆の声は喉に絡んで落ちる。首にかからない程度の長さで切り揃えられた金色の髪が風に揺れて、きらきらと照り返す光に目を細めた。

離れた場所に立ってこちらを睨んでいた彼が、駆け出すように姿勢を低くした。びくりと肩が揺れて、私は現実に返る。


『死神に捕まったら、殺されてしまうよ』


いつだったか藍染サマが言った言葉が不意に脳裏を過った。

「………っ」

竦んでいた足が弾かれたように動いた。踵を返して、私は空に爪を立てる。

―――さかさまの、金色。

『バカじゃないの。死神も人間もあたし達虚も、みーんな地面の向きは一緒よ』

前回逆さまだった金色は、今回は逆さまではなかった。前回が何かの間違いだったのか、それとも今回がおかしいのかは分からない。けれども、見たところ彼は虚ではないし、腰に刀を下げている。彼に私が見えていて逆さまでないのなら、死神である可能性が高い。

どくんどくんと心臓が鳴る。胸でなく耳元に移動してしまったように思うほど大きな音だった。見えない何かに引っかかった指先を、そのままぐんと押し下げる。向こう側に暗い水面を湛えた黒腔が見えた。とにかく逃げなければならないという一心だった。くそ、と舌打ちをする音が背後で聞こえた。その声に急かされるように穴に飛び込もうとした私の背を、大きな怒声が追ってきた。

「…っの、失礼やろがァ!!」

想像もしていなかった台詞に、私は思わず動きを止めた。黒腔を前に指をかけたまま、そうっと振り返ってみる。同時にがしっと腕を掴まれて、ヒッと喉から空気が漏れた。
金色は肩で息をしながら、私の腕を掴んでいた。反対の手は膝に置かれていて、ぜーぜーと響く呼吸音から相当急いで走ったのだろうと想像できる。伏せていた顔が上げられて、見上げるような三白眼と目が合った。彼は怒ったように眉を寄せながら、私に向かって怒鳴った。

「毎度毎度人の顔見る度に逃げるなんて失礼やろが!」

その勢いに押され、私はぱちぱちと瞬きを繰り返す。言われてみればその通りだ。

「たしかに…」

呟くと、彼は拍子抜けしたように目を見開いた。私は指先をすっと動かして黒腔への道を閉ざす。
もし私が彼だったら、初対面の人に見つかる度背を向けられたらとても悲しい気持ちになるだろう。言われてみればそれはひどく失礼な行動だ。そもそも彼が死神か人間かそれ以外かなんてまだ何もわかっていない。彼が何者かわかってからでも、拒絶するのは遅くないのではないだろうか。

彼は私の腕を掴んだまま体を起こした。真っ直ぐに立つと私よりもずっと背が高い。ギンと同じくらいか、それより少し低いくらいだと思う。私は彼を見上げて、口を開いた。

「失礼なことしてごめんなさい」
「…………」
「私ナマエ。あなたは?」

彼は怪訝そうな顔をして、私を見つめた。
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