それでいい



後ろ手に扉を閉めて、私は深呼吸をした。心臓の音がうるさい。渦巻く闇の音が低く大きく響くのに、それすら掻き消してしまいそうだった。
以前窓を開いた場所はどこだったか。黒腔は目まぐるしく動いているから、どこから行けばどこへ出るのか私には分からない。夢の中のようにここだと思える場所もなかった。どこも以前の場所のように思えたし、そうでないようにも思える。

―――声のする、場所。

前回は確か声を頼りに場所を決めた。今もうっすらと聞こえる話し声のようなもの。人間を見たかったから、それがたくさん聞こえる場所にしたはずだ。私は外套の襟口を握りながら、そうっと足を踏み出した。
前回よりも慎重に慎重に、その場所を探す。同じ場所に出られたからって金色に会えるとは限らないけれど、他に手がかりもない。全然別の場所に出て途方に暮れるよりは良いように思えた。

―――もしも、会えなかったら。

ほんの少し胸の奥が痛んで、私は目を伏せた。そうしたらもう、仕方がない。回数を重ねればいつか会えるのかもしれないけれど、そんなつもりはなかった。ゲンセに来るのは、これが最後。もしも出会えなかったなら、大人しく虚圏に帰ってそこでまた今まで通り生きていく。チルッチに笑われて、ハリベルに頭を撫でてもらって、シャルロッテとお喋りしながら迷路で遊ぶ。平和で穏やかな、私の世界。

―――ギンは、ずっとはいてくれない。

ざわめきを頼りに歩いていく私の頭を、細い目で笑う彼の顔が過った。
彼はきっとその内虚圏からいなくなる。それは誰に聞いたわけでもないけれど、そういうものなのだという感覚があった。藍染サマもカナメもそうだ。あまり遠くない未来に、虚圏は再び虚の世界になるのだろう。それはきっと、逃れようもなく。
それが良いことなのか悪いことなのかなんてわからなかった。ギンがいなくなることだけが寂しかったけれど、その時になったらきっとギンは私のことなんて顧みないだろう。彼はとても優しいけれど、譲れないものがあるのだと何となく知っていた。だから、寂しいことではあるけれど、私は彼についていくことはできないし、しない。彼が私を構ってくれた分だけ、私はその瞬間の喪失感を恐れている。

「……ここ、かな」

辺りを歩き回って、私は漸く一点で足を止めた。この辺で一番囁く声の集まる場所。何を言っているのかは聞き取れないけれど、たくさんの気配がする。私はすうっと息を吐いてから、大きく吸い込んだ。
あまり長居はできない。窓を開くのはほんの少しの時間。外套は私の霊圧も仮面も隠してくれるけれど、念を入れて自分でも霊圧を抑えている。誰にも迷惑はかけられない。ばれてはいけない。

―――一目で、良いから。

この前のように一瞬で良かった。お日様の色を照り返して光る金色。もう一度見られたら、それでおしまい。話しかけられたり、気付かれる前に窓を閉めてしまえば追っては来れない。

「…よし、」

私はキッと目を開いて、正面の空間を見据えた。黒く波打つ黒腔に指をかける。躊躇わずにぐっと力を籠めると、隙間から光が漏れてきた。一度しか目にしていないはずのそれがひどく懐かしくて、私は目を細めた。

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