痛みも飲んだ



轟々と音を立てる黒い波の中に立っていた。あちらこちらからざわざわと囁きが聞こえるけれど、沢山の声が一度に喋るので何と言っているのか聞き取れない。私は途方に暮れた。一体どちらに向かえばいいのか分からなかった。
けれどもその空間には、同じ黒でも灰色がかった黒い場所ともっと暗い漆黒の場所があった。私はその間に立って両方を見比べる。どちらがどうかなんてわからないけれど、何となく引かれるように灰色の方へ歩き始めた。

この場所を知っている。いつか来た黒腔だ。のろのろと歩みを進めながら、私は自分の手のひらに視線を落とした。指先が小刻みに震えているのが暗闇の中でも見て取れた。

このまま歩いて行ってはいけないと、頭の中でもう一人の私が言う。このまま行ってしまえば、きっと後戻りできない。けれどその声に反して私の足は勝手に動いていく。心臓の音が耳元で聞こえるようだった。だめだと思うのに、無理に抗う気にはならなかった。半ば諦めのような気分で、私は歩を進める。

灰色が何を意味するのか理解していた。一度現世を覗いた私は、『明るい』がどういうものなのか知っていた。私は明るい方へ進んでいるのだ。それが何を意味しているのか、分からないはずもなかった。

ざわざわという声が大きくなっていく。まるで周りを囲まれているような気分だった。誰なのかはわからない。確かめる術もわからなかった。先へ進むにつれて辺りが明るくなっていき、それに比例してざわめきが大きくなる。見えない雑踏の中心で、私は足を止めた。

足元を見ると、波のように闇が揺れていた。上空を見上げても同じだった。私は闇の波に潜っている。なのに体には何の抵抗もなくて、それが不思議な感じだった。
歩いてきた方を振り返ると、もう黒しか見えなかった。スタート地点がどこだったかなんてわからない。どれくらいの距離を歩いてきたのか見当もつかなかった。けれども何となしに、ここは以前私が来た場所なのだろうと思った。

「………」

私は少し躊躇ってから、そっと手を持ち上げた。闇の中に白い私の腕が映える。その指先は、もう震えていなかった。
空間に爪を立てる。ぐっと力を籠めると、そこに隙間が現れた。差し込む眩しい光に、私は目を細めた。
そろそろと腕を下げていく。段々と広がっていく隙間が、穴になっていく。四角く空いた窓のようなそれの前で、眩しさに耐えかねて目を瞑った。瞼の裏側が赤く染まる。虚圏にはない色だ、と思った。

ふとざわめきが遠ざかった気がして、私はそっと目を開けた。真っ青な空の真ん中で、あの金色がこちらを見ているのに気が付いた。


「―――ナマエ、」


名前を呼ばれて、私は大きく目を見開いた。暗い視界に覗き込む銀色が映る。無意識に詰めていた息を吐きながら、ギン、と呼ぶと、彼は笑いながら首を傾げた。

「怖い夢でも見たん?」
「…怖くは、なかったんだけど」
「何や寝苦しそうやったから起こしてしもたんやけど」

彼はいつもの白い服を着て、私のベッドに腰かけていた。ふっと持ち上げられた指先が私の前髪を掻き上げる。うっすらと汗をかいていたことにそこで漸く気が付いた。

「いつ帰ってきたの」
「ついさっき」
「今回は、早かったのね」
「んー、まぁ暫くしたらまた戻らんとあかんねんけど」

ギンは背中を丸めて私を覗き込むように座っている。硬いベッドの一部が自分でない重さによって沈んでいるのが感じられて、私は何となくほっとした。怠い腕を持ち上げておでこの上に乗せる。汗をかいたせいか腕はいつもよりひんやりとしていた。その温度が気持ち良い。

「暫くって、どれくらい?」
「せやなぁ。今日明日中にはもっかい出んとあかんかなぁ」
「それ暫くじゃなくてすぐじゃん…」

あからさまに残念そうな声で口を尖らせた私に、ギンは笑ってもう一度手を伸ばした。大きな手のひらに頬を包まれて、私は目を細める。ギンの体温も低い。けれど頬に触れれば私よりもほんのり温かくて、私はギンの手に触れるのが好きだった。何となく安心ができるのだ。

「ナマエが寂しいかな思て」

冗談とも本気ともつかない声で彼は言った。私は唇を引き結んで眉を下げる。ギンがそれをどういう気持ちで言ったかなんてわからない。例えばそれが冗談だったとしても、そんなふうに気にしてもらえるのは嬉しかった。けれども、私はそれを手放しで喜べなかった。ついさっきまで見ていた夢のせいもあって、胸に何だかしこりがあるようだった。

ギンはきっと楔だ。
私を、この世界に繋ぎとめている。

「ギン、」
「んー?」
「私ギンが好きよ」
「ボクもキミのこと気に入っとるよ」
「…好きと気に入ってるはイコールじゃないと思うんだけど」
「そう?」

私は頬に触れるギンの手の甲に自分の手を重ねた。ギンの指先は私の頬を撫でるように優しく動く。この大きな手で、沢山のものを殺してきたはずなのに。

「ねぇギン、コイって何?」
「コイ?魚んこと?」
「違うやつ。何か、多分テンペンチイのこと」
「はぁ」

ギンはよくわからないとでも言うように眉を下げて首を小さく傾けた。その表情を見上げながら、私は数日前にシャルロッテとした話を思い出していた。

「誰かを好きになって、朝も夜もなくなることだって」
「あー…」
「朝と夜がなくなったら昼だけになるのかしら」
「眠れんようになりそうで困るわぁ」
「昼は眠れないの?」
「明るいと眠くなりにくいんよ」

また一つ知識が増えた。昼は明るくて、明るいと眠れないのか。不思議。ということは、人間は夜に眠るのかしら。こちらはずっと夜だから眠い時に眠るけれど、眠れる時間が限られているというのは不便だと思う。
私はギンの手のひらを頬から剥がして、自分の指先を絡めた。ギンの指は長い。私の指よりもごつごつしていて、普段華奢に見える分触れると不思議な気分になる。

「私、ギンのこと好きよ」
「さっきも言うとったなぁ」
「でも、私の好きはコイではないのですって」

私は何となく口を尖らせて、ギンの指先を弄る。ギンは少し笑って、私の指を連れたまま私の頭を撫でた。

「ナマエもその内誰かに恋するんかなぁ」
「ギンじゃない人に?」
「せやね、きっとそうやと思うわ」

ギンじゃない誰かを好きになるというのはよくわからない感覚だった。私が今までに出会ったモノの中で、一番好きなのは間違いなくギンだ。それ以上なんて現れる気がしなかった。

―――しなかった、のに。

私の頭を撫でながら笑う彼を見上げて、私は何となく目を伏せた。
それなのに、瞼の裏にちらつく金色が、こんなにも思い起こされるのはなぜなのだろう。
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