なにいろの花束

薄氷のように焦がれて


「もし世界が明日終わるとしたらどうする?」

何の気なしに訊ねた言葉だった。どういう返事を期待してとか、そんな大した思惑もなかった。本当に何気なく思いついて、それを碌に考えもせず口から放り出した、ただそれだけだった。

彼はいつもの不機嫌そうな顔で私を振り仰いだ。座っている彼に対して横に立っている私は、彼を覗き込むようにして膝を屈めている。晴れた庭に差し込む夕焼けは柔らかくて心地よい。この場所にずっと留まっていたかった。

彼は何かぶっきらぼうに言った。それに対して私は、「まあそうだよね」と笑った気がする。何も考えずに出た話題に対して、特に不満も何もなかった。何もなくても良かった。ここに彼といられれば、それで。

「けど、」

耳元で囁くくらいの距離で、彼が何か言った。

そこで、目が覚めた。


大きな音を立てている枕元のスマートフォンに手を伸ばす。手探りでアラームを止めながら体を起こすと、頬を伝うものがあって瞬いた。触れると一粒だけ零れた涙が、もう顎にまで到達している。

「…変なの」

夢を見ていたのを覚えている。きらきら差し込む光と、あたたかい場所。

「…だれだっけ」

苦しいほどに胸が軋む夢だったのに、もう思い出せなかった。


+++


がしゃん、と大きな音に肩を竦める。落とす瞬間にしまったと思ったのだけど遅かった。拾おうとしゃがむ前に「失礼しました」とホールに向かって声をかけると、いつもより強めに眉を顰める平子さんの姿。

「割れたか?」
「はい。びっくりさせてすみません」
「ええけど、珍しいな」

お嬢さんが何か割るとこなんて初めて見たわ、と言われて私は苦笑した。実生活ならともかく、さすがに仕事中は食器を割るようなことはしたことがない。思い出す限り皆無だった。今回が初めてだと言っても過言でないと思う。

先日ご飯を食べに行ってからまた何日かが経ったけれど、平子さんは相変わらず普通に店にやってくる。プレゼントはとりあえず喜んでもらえたらしい。それならとりあえず良かった。

「ちょっとぼんやりしちゃってたみたいで」

しゃがみながら落としたガラスコップに手を伸ばす。幸い豪快に割れたようで破片は大きく、たくさん散らばった感じではない。とはいえ、ガラスは砂みたいに細かくなるから、少し広めに箒で掃除する必要はあるだろう。
とりあえずコップの底の部分を片手に大きな破片を拾っていくと、視界が急に暗くなった。顔を上げた先には、天井の電球を遮るようにこちらを見下ろす平子さん。

「素手でしなや、手ェ切るで」
「え、はい。でも大きいのだけなので」
「今しがたコップ落としたばっかのドジっ子なんて手ェ切る痛い未来しか見えんわ」
「失礼な。というか平子さんも危ないんで離れててくださいよ」

席についてください席に、というと「オカンか」と笑われた。どちらかというと先生だと思う。
お客さんがカウンターの中まで入って来ちゃだめですよ、と付け足すと、彼は素直に「へーい」と返事してカウンターの一歩外側まで出た。

その間に私は破片は手近なところにあった紙袋に突っ込んで、店の裏から箒とちりとりを持ってくる。毎日掃除しているのでほこりは殆ど無い。代わりにチリチリと音を立てて、微かに光る細かなかけらがダークグレーのちりとりに吸い込まれていく。自然と溜息が零れた。別に何か落ち込んでいるとか、そういうわけではないはずなのだけど。

細かい破片も全て紙袋に入れて、口を何回か折り込んで閉める。それをゴミ箱の横に置いて、手を洗おうと踵を返した。瞬間、すぐ目の前に立つ誰かにぶつかりかけて私は反射的に一歩足を引いた。引いた足がゴミ箱に当たって、しまったと足を引っ込めようとし、バランスを崩す。ピタゴラスイッチか、というツッコミは頭の外へアウトプットする暇もなかった。
ぐらりと横に傾きかけた私の体は、そのまま床に向かって倒れていくはずだった。経験上そうであるという未来が一瞬のうちに頭を過っていたのだけれど、得てして私の体はそれ以上傾かず、衝撃に備えて思いっきり顰めていた眉そのままにそろりと顔を上げる。

目の前に立っていたのは平子さんだった。彼が私の肩を掴んで支えているので転ばずに済んだ、というのがこのコンマ何秒かの間に起こった出来事のようだ。それを認識してお礼を言おうと口を開きかけ、私ははたと止まる。そもそも転びそうになったきっかけが目の前に立っている人だったのだから、全ての原因は彼なのでは。

「あ、の」

お礼を言うべきなのかどうなのか迷って、曖昧な言葉が滑り落ちる。背の高い彼の表情はよく見えなくて、仰ぎ見ようとした私の視界に唐突に少し身を屈めた平子さんが映った。こんな間近で、想像もしていなかった私は息を呑んだ。遠く窓から差し込む赤い光が照らして、彼の髪も夕焼けみたいな色だった。

見たことがある、と思った。

ああ、この既視感は何だっけ。喉のすぐ下まで出かかっているのに言葉にならない。反射的に手を伸ばして彼の腕を掴んで、口を開こうとしたのだけれど何も出てこなかった。こんなに胸が軋むのに。

「…お前、」

眉を顰めた平子さんの顔を直視できなくて、私は目を伏せた。心臓がうるさい。理由なんてわからない。

平子さんが、私を掴んでいない方の手を持ち上げる。その大きな手のひらが、不意に額に触れた。

「やっぱり。お嬢さん熱あるやろ」

へ、と間が抜けた声が出た。あんなに言葉が出てこなかったのに、嘘みたいにするりと。一度伏せた目線をもう一度上げれば、眉を顰めた彼が自分のおでこと私のおでこにそれぞれ手を当てている。

「何や珍しく調子悪い思たんや。熱あるでこれ」

言われて初めて、私は自分の倦怠感に気がついた。そういえば体が重いと言えば重い。寒気というほどのものはなかったけれど、ちょっと肌寒いかなとは思っていた。冷房のせいだと勝手に思い込んでいたのだけど。

「え、あ」

何て返したら良いのかわからずわたわたしていると、平子さんがすっと身を起こす。

「今日はじいさんは来ないんか」
「あ、えと、この後もうちょっとしたら」
「したらじいさん来たら交代で帰り。真っ直ぐ家行ってしっかり寝ぇよ」
「、でも」
「熱ある孫が無理して店立ってたと知ったらじいさん噴火すんで。…家に薬あるか?」
「…頭痛薬と兼用の解熱剤が」
「熱しんどいやろけどすぐ冷ますんはあかん。一眠りして、しんどくてよう眠れんようやったら使い」
「…はい」
「食べるもんとかスポーツドリンクとかは?」
「スポーツドリンクはないです」
「せやったら俺買うてきたるし、ちょお待っとき」

平子さんは座席にかけていた上着を取って、「コーヒー代置いとくで」とレジの前にコインを置いた。認識の追いつかない私は「えっと」「でも」とよくわからない言葉しか出てこず、気持ち重い足で彼を追ってカウンターを出る。上着を持ったまま振り返った彼は、少し困ったような顔をした。そのままさっきと同じように手が差し伸べられて、私の頭をくしゃりと撫でる。

「そない顔しなや」

すぐ戻ってくるさかい、と彼は笑った。
私は頷くこともできなくて、喫茶店から出ていく彼の背を見送った。からんからん、とベルが鳴って、その余韻も無くなった頃に漸く両手を持ち上げる。頬に触れたけど、自分がどんな顔をしているのかは分からなかった。



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