できもしない恋のよう
「なぁ。自分この後時間あるか?」
いつもの通りお客さんのほぼいない店内で静かにコーヒーを飲んでいた平子さんが唐突にそう声を上げたのは、真っ赤な西日が暮れ始めた頃だった。一瞬誰に向かって放たれた言葉なのか理解できず、辺りを見回してしまった。西日に照らされて仄かに飴色を照り返す店内には、かすかに聞こえるジャズと彼の気配一つ。
「…はぁ?」
この空間に私と彼の二人きりしかいないことを確認して、最初に出たのは素っ頓狂な声だった。彼は不服そうに眉を顰める。
「ジョシダイセーが大人にそんな態度取ってええんか、おお?」
「いい歳した大人がそのジョシダイセーをナンパしないでくださいよ」
「俺がいくつか知ってんか」
「知りませんけど」
「ほな『いい歳』かどうかなんてわからんやろが」
「屁理屈言わないでください」
もう、と口を尖らせると彼はケッと悪態をついた。その様子はまるで子どもだ。もしくはヤンキーか。金髪だしどちらかといえば後者かもしれない。
「そもそも平子さんが大人って言われても」
「何や、年下に見える言うんか」
「いえ全然。というより、働いてるとこが想像できないんですもん」
この常連さんは既に大分気安い。ほぼ思ったままを口に出すと、呆れたような三白眼がひらひらと片手を振る。
「俺はフリーターやで」
「フリーター!?そんな偉そうな態度で!?」
「オッマエほんま歯に衣着せること知らん子ォやのォ。全世界のフリーターに謝れや」
「え、ごめんなさい!でも、」
「リストラされたんや。むかーしむかしにな」
リストラ。何年も前にリーマンショックが起こったことを思い出して、私ははたと手を止めた。もしかしたらあんまり振ってはいけない話題だったかもしれない。憮然としたようなその表情は普段と同じに見えるけれど、本当に普段と同じなのか自信がなかった。
ごめんなさい、と呟くと、三白眼がこちらを向いた。
「何やねん。謝られたら俺が気にしてるみたいやろが」
「でも聞いちゃいけなかったかなって」
「全然気にしとらんから謝りなや」
フンと息を吐いた彼は、長い足を組み直しながら体ごと私へ向き直った。
「ほいで?結局自分この後予定あるんか」
「まだ続いてたんですね、その話題」
「当たり前やろが。店は19時までやろ」
「そうですけど」
「プレゼント渡したい奴がおるねん。選ぶん手伝ってや」
ぱちぱちと2回瞬いてから、私はなるほどと呟いた。何の理由があってと思ったけれどそういうことか。
「どなたにですか?」
「知り合いや知り合い」
「はあ。女の子?」
「野郎にやるもんなんてないわ」
「誕生日とかですか?」
「そんなとこやな」
はあ、と再度唸ってから首を傾けた。壁にかかる古い振り子時計を見やると、時刻は18時を回ったところだった。今日は店長である祖父は通院で留守。閉店作業までが私の業務だ。
逡巡して、小さく息を吐く。
「…しょうがないですねぇ」
恩着せがましく言うと、彼はニィといつものように笑った。
「夕飯くらいは奢ったるわ」
「いいですよ別に」
「時間的にも丁度ええやろが」
「お客さんにそこまでしてもらえないですよ」
「店出たらお客さんちゃうやろ」
「じゃあ、フリーターさんにそこまでしてもらえないです」
「気にすんな言うたんは俺やけどな、お前歯に衣着せること覚えや」
グラスを磨いていた手を止めて、私は笑った。平子さんは一瞬きょとんとしてから、ふっと口元を綻ばせた。