なにいろの花束

泣いてたってわからない角度

彼は結局19時までにもう2杯コーヒーをお代わりし、彼以降お客の入らなかった喫茶店の閉店作業は余裕がありすぎるくらいで終わった。夏とはいえ大分暗くなり始めた住宅街の細い道に鈍い鐘の音を響かせながら、私はガラス扉にclosedの札を下げる。古い鍵でガチャガチャと錠をおろし、よし、と呟くと「しまいか?」と低い声が尋ねた。振り返った先に、いつもより高い位置にある気怠げな平子さんの顔。

「はい。お待たせしました」
「ええ、ええ。無理言うたんは俺の方やしな」
「なんか心広い風なこと仰いますね」
「風ちゃうてほんまに心が広いねん」

失礼なやっちゃな、と不服そうに彼が言うので少し笑ってしまう。歩き始めた彼の横に並びながら、私はショルダーバッグの肩紐を掛け直した。
駅前の繁華街の方へ向かう道とはいえ、暫くは住宅街の中を行くので喧騒は遠い。時折通りがかったどこかの家から美味しそうな匂いが漂ってきて、釣られたお腹がぐうと音を立てた。

「腹ペコやんか」
「お昼以降食べてないんでまぁそれなりに」
「こら先に飯やな」
「いいですよ、先にお店行かないと閉まっちゃうかもだし」
「万一そうなったらどっかでもう一回つきおうてや」
「本末転倒じゃないですか」

面倒は面倒やけどなぁ、と彼は頭をかく。

「まぁええねん。琥珀のお嬢さんとお近づきになれたんなら万々歳や」
「おじいちゃんが聞いたら出禁になりますよ」
「絶対言うたらあかんで」

俺あの店気に入ってんねん。何の気なしに言われた言葉が嬉しくて、私は少しだけ肩を上げる。そうですか、と返した言葉は出来るだけ気にしていない風を装おうと思ったけれど、滲み出るくすぐったさや嬉しさはカバーしきれなかった。

平子さんの背は高い。横に並ぶと尚のことだった。足の長さも勿論相当違うはずだけれど、追いつくのが大変だとは全く思わなかった。歩幅を合わせてくれているのだと気がついたのは大分歩いてからだ。自然過ぎて全然違和感がなかった。女の子に慣れているんだな、と感心する。

「『琥珀のお嬢さん』っちゅーのんも何や他人行儀やな」
「まぁ他人ですし」
「俺もう結構常連やろ?」
「そうですね、もう何年になりますかね」
「いちおーお嬢さんがバイト入り始める前から通うてるしな」
「じゃあ3年以上ですね」
「そろそろ俺も他の常連のおっちゃん達みたく名前で呼んでもええんちゃう?」

予想外の言葉にぱちぱちと瞬く。彼はいつもと同じような冗談半分の表情なので、冗談なのかどうなのかがよく分からない。んーと首を傾けながら私は唸った。

「そもそも平子さん私の名前知ってます?」
「知っとるで。琥珀のお嬢さんはおっちゃん達のアイドルやしなぁ」
「おっちゃんには平子さんも入ってるんですか?」
「阿呆。俺のどこがおっちゃんやねん。どっからどう見てもぴちぴちのオニーサンやろが」
「ぴちぴちっていうと何か魚みたいですね」

打てばぽんぽん返ってくるのが楽しくて、スキップのように気持ち足が踊る。まあ、でも、なんて勿体ぶって隣を歩く彼を見上げれば、いつも通りの三白眼。

「名前呼ぶくらいいつでもどうぞ。お好きに呼んでいただければ」
「名前チャン」

言ったそばから間髪入れず名前を呼ばれた。気怠げな瞳と目が合って、私は苦笑いする。普段呼ばれ慣れていない人から下の名前で呼ばれるというのは不思議な気分だった。なんだかくすぐったくて小さく首を傾けると、彼は今度は私から視線を外し、正面を向いたまま再度「名前チャン」と呟く。
そうして暫く黙り込んでから、あかん、と零した。

「人の名前があかんって何ですか急に失礼な」
「や、ちゃうねん。おっちゃんら普通に呼んどるし聞き慣れとるからいけるやろ思たんやけど」

彼は正面を向いたまま、がしがしと頭を掻きながら笑った。その表情が一瞬、見たことのない不思議なーーー説明のし難いようなーーーものに見えて、私は息を止める。隣にいた彼がほんの少しだけ、私の斜め前に出た。

「呼び慣れとらんから呼びにくいわ」

その違和感は刹那で、次の瞬間にはいつもの気怠げであっけらかんとした関西弁がそう言ったので、私は「もう」と口を尖らせる。

「私だって呼ばれ慣れてないから呼ばれにくいですよ!」
「こら暫くは『琥珀のお嬢さん』のままやなぁ」

彼はけらけらと笑った。喧噪の遠い、暗くなり始めた住宅街の道で、その笑い声は小さく反響する。一体この数分間のやり取りは何だったんだと思いながら、私は心の中で少しだけほっとした。それが、なぜなのかは自分でもよくわからなかった。



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