なにいろの花束

見出された子

町には誰もいなかった。
正確に言えば、意識を持った人間は誰一人としていなかった。

いつも通る道路、角のパン屋さん、ちょうど止まっている宅配便の車。そのそれぞれに人の姿を見つけたのに、みんな床や地面に倒れ伏してぴくりともしない。体を揺すっても頬を軽く叩いても、何の反応も示さなかった。けれども胸は一定のリズムで上下していて、呼吸音もあるし体も暖かい。

最初の内こそ見つける度に大きな声で声をかけたり俯せの人を起こして揺すったりと色々試していたのだけれど、3人目を超えたところでそんな余力もなくなった。当然のことながら抱え起こして運ぶような力もなく、ごめんなさい、と小さく謝ってその場を後にする。
公園のすぐ横に公衆電話を見つけて駆け込んだけれど、ここもやはり繋がらなかった。救急ダイヤルはお金をいれなくても繋がるはずなのに。

消防署や病院まで行って直接呼んでくるのも一つの手だったけれど、それが出来ないだろうことに何となく気が付いていた。ここまで意識のある人間に出会っていないのなら、私以外の人間は全員倒れているとしか思えない。何故自分がそれを免れているのかはわからないけれど、この体と頭の重さから図るにそれが紙一重であることは間違いなさそうだった。

「…っひらこ、さん」

この公園は以前、彼と出会ったことのある場所だ。熱が下がってすぐの時だった。ほんの少し前の出来事なのに、何だかすごく遠い記憶のようだ。彼もどこかで倒れているのだろうか。

―――平子さんなら、助けてくれるって思った、けど。

私は息を切らしながら体を屈めて、顎を伝う汗をぬぐう。
そもそも私は、彼の住んでいる場所や普段いる場所も全く知らないのだ。たまたまこの近くで出会う以外は、喫茶店に来てくれた時しか顔を見ることもなかった。
仕事も、好きなものも、年齢すら、私は知らない。彼の居場所を探すことなんて不可能に等しい。

―――今更、気付くなんて。

彼が店を訪れてくれるから。そうでなければ私は、彼に会うことすらできないのだ。私は、何も知らない。
平子真子という名前以外、何も。

「……っふ、」

息が苦しい。焦りと心細さが綯い交ぜになって息が上手く出来ない。ぽたりと零れた雫がアスファルトに染み込んでいく。二つ三つと濃いグレーの染みをつくった。

「おや」

唐突に頭上からかけられた声に、反射的に顔を上げた。
何の音も立てないまま不意に現れたその人は、私の目線よりもかなり上の位置で私を見下ろしていた。
そんなところに人がいるはずのない位置だった。視線を少し下げれば、すぐに答えに辿り着く。地面に足がついていない。浮かんでいるというよりは、何もない空間に地面があるように立っている、と言った方が正しい様子だった。
けれどもそんなところに見えない地面などあるはずがないことを私は知っている。だってそこは、今しがた私が通ってきた道の上なのだから。

その人は全体的に白い出で立ちだった。服も、爪先までが白い。なのに本来白いはずの眼は瞳以外も真黒に塗り潰されている。オールバックにした髪の毛だけがうっすらと茶色く透けていて、それ以外は全て白と黒で出来ているようだった。

その人と目が合った。合ったのだと思う。実際には真黒な目に見据えられただけで、視線が合ったのかどうかなんて判別もつかなかったのだけれど、それだけで私は射竦められたように動けなくなった。ひやりとした汗が背筋を滑り落ちていく。あれが何なのかなんてわからないのに、それでも理解できる明らかな悪意。ここにいてはいけないと頭の中で警鐘が鳴り響いて、叫びながら駆け出したいのに足が動かない。それどころか、ずるずると力が抜けて私は尻餅をついた。
そんな私を見下ろしながら、それは口元に笑みを浮かべる。

「これはこれは。××君じゃないか」

そうして私はそれに、気さくに話しかけられた。

咄嗟に何の返事もできなかった。けれど少なくとも呼ばれた名前は私のものではなかったようだった。私は呆然と口を開けたまま、それを見上げた。それは私を見て少し首を傾げた。

「ああ、なるほど。記憶がないんだね。現世に生まれ変わったのだから仕方ない」

それはするすると私の知らない言葉を喋る。何を言っているのか理解できないのに、こめかみを、あごを、汗が伝う。聞いてはいけない、と。本能のように、そう思った。けれども体が動かない。逃げられない。

このままこの話を聞いてはいけない。けれどそれはそのまま、口元の笑みを更に深くする。醜悪に。

「平子真子には、もう会ったかい?」

ぴくりと肩が震えた。見開いたままの視線の先で、それが楽しそうに目を歪める。

「そうか、会ったんだね。彼はやはり諦めきれなかったらしい」
「な、に…を」
「尸魂界にいた時から中々のご執心だったからね」

訳が分からない私をそのまま、それはふむ、と納得したように一つ頷いた。

「それで、今生では添い遂げるとか、そういう茶番はもう済ませたのかな?」

何を言っているのか、わからない。
ぺたりと地面に座り込んだまま、私はそれを見上げて呆然とする。日本語を喋っている。単語を理解している。それなのに、それが発する言葉の意味がわからなかった。人違いだ、とも思ったけれど、それには自分が納得いかなかった。だって、それは明確に私を見据えたまま、悪意の塊のような言葉を降らせている。

―――そう、これは悪意だ。

私に対して。それとも。

それとも、平子さんに、対しての。

「………っ」

ぶわりと体中の毛が逆立つような感覚があった。血が沸騰するように熱くなる。

「彼に」

地面に触れたままの指先が砂利を掴んだ。あんな得体のしれない何かを前にして立ち上がることすらできないのに、自分のことよりも先に頭を過った笑顔。年上で、何も教えてくれなくて、意地悪で、優しい。大好きな、あの人。

「彼に、さわるな…ッ」

それは少し考えるような素振りを見せ、それから再び笑みを浮かべた。
そして。

体の真ん中に、衝撃を受けた。目の前に立つそれは相変わらずそのまま性格の悪そうな笑顔でこちらを見ている。
その手に握られている、血のついた刀。

ひゅ、と喉が鳴った。心臓が耳に移動したようにうるさい。胸の奥から何かがせり上がってきて、咳き込んだと同時に吐き出すと、鮮明な赤。
自分の体を見下ろすと、お腹と胸の境目の辺りから赤く滲みだしている何か。

―――なに、これ。

すぐに体を真っ直ぐ保てなくなって、ぐらりと横倒しになる。かすむ視界に広がっていく、赤いもの。
これは血だ。でも、何で。

「今は別の子どもと鬼ごっこの最中でね。君に構う時間はあんまりないんだ」

それの声だけが、段々暗くなっていく私の意識の中に降ってくる。少し笑いが混じった、嫌な声。

「全部捕まえたら、君と一緒に町の外に吊るしてあげよう。それまでここで待っていてくれるかい」

別の、子ども。それって、誰のこと。あなたは、なにものなの。
息が苦しい。痛いのかどうかもわからない。目が、かすんで。もう。

そこで、私の意識は途絶えた。


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