なにいろの花束

いつでもきみはひとりきり

その日は、いつもどおり店でグラスを磨いていた。
大学の授業は1限のみで、午後の授業は全て休講になってしまったので、家に帰らずそのまま店に寄ったのだった。
祖父は丁度休憩に出ようかどうかと話しているところだった。エプロンを外し、何軒か先のパン屋さんでついでにサンドイッチ用の食パンを買ってこようか、なんてやりとりをしていた。

その瞬間は、唐突に訪れた。

ズン、と圧し掛かるような重みと同時に地面の揺れを感じて、私は膝をついた。慌てて祖父を見ると、祖父も倒れ込んでいた。地震という言葉がすんでのところまで出かかって、すぐに違うことに気が付く。地面の揺れは最初の一瞬だけで、それ以降は何の揺れも感じない。おじいちゃん、と声をかけたけれど、祖父は気を失っているのか反応を示さなかった。

―――何が、

体が重い。ひどい眠気が襲ってきて、身を起こしているだけでもつらかった。それでも這う這うの体で祖父に近寄り、その体を揺する。

「おじいちゃん、おじいちゃん…ッ」

俯せに倒れていた体を仰向けても、祖父からの反応はない。それでも上下する胸を見て、息があることにほっとした。倒れたときに頭を打ったりしているなら揺すってはいけないということに漸く思い至って、私は祖父から手を離す。
すぐに救急車を呼んだ方が良いのだろうか。呼吸があるとはいえ、呼んでも揺すっても意識が戻らないなんておかしい。どうしよう、と私は唇をかんだ。そして、少し迷ってポケットのスマートフォンに手を伸ばす。

ほどなくして意識が戻ったら、そのときは「心配した」と言って少し怒ってからほっとすればいい。とにかくこのまま祖父を転がしておくことはできなかった。重い頭と体で119をダイヤルして、耳に当てる。
普段なら少しの間をおいてコール音がするはずのそれは、全く音を発しなかった。

慌ててディスプレイを確認しても、発信先は119番で間違いない。もしもし、と声をかけてみたけれど何の反応もなかった。
一度電話を切り、もう一度ダイヤルに指を滑らせる。119、としっかり3桁の数字を確認して発信したけれど、やはり耳に当てたスピーカーは何の音も発しなかった。

「…っ何で、」

体を起こして窓の外を見る。外からも特に何も聞こえない。誰も今の騒ぎに、気が付いていないのだろうか。
きょろきょろと辺りを見回して、違う、とその違和感を知覚した。同時に、背筋を悪寒が上る。

―――どうして、何の音もしないの。

喫茶『琥珀』は住宅街の中にある。閑静な住宅街とはいえ、すぐ前の道は車も通るし、少し離れたところには学校があり、この時間ならまだ学生が行き交っているはずだった。普段ならそういう人の営みらしい音が、窓の向こう側から微かに聞こえてくるのに。

辺りは水を打ったように静まり返っていた。自分の心臓の音以外と祖父の微かな呼吸音以外何も聞こえない。

「…ッ、おじいちゃん」

再び祖父を呼んだけれども、祖父の様子は変わらずだった。唸ったり眉を顰めたりもしない。呼吸音は一定で、一見すれば眠っているようにも見える。

私は音のしない外と、目の前で倒れる祖父を交互に見た。頭と心臓が大きく脈を打っている。座り込んだままぎゅっと手を握って、カウンターを支えに重い体を起こした。

「外の様子、見てくるね」

聞こえていないだろう祖父に、声をかける。

「助けてくれそうな人がいたら、連れてくるから」

思い浮かんだのは、金色の髪の人だった。意地悪そうに笑った顔を思い出して、私は唇を引き結ぶ。

だから待っててね、おじいちゃん。

気を抜けば今にも決壊してしまいそうな涙腺に力を籠め、扉に向かった。カランカランと響いたいつものベルの音が、ひどく乾いた音のように聞こえた。



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