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もしも、帰って来れたなら


―――例えばもしあの日、私が檜佐木副隊長の誘いを受けなかったら。

あれはほんの半年前の出来事だったはずだ。いつもより早くに目が覚めた朝だった。家にいても何もすることがないからと、のんびり歩いて出勤するつもりで家を出た。そこでたまたま檜佐木副隊長に出会って、成り行きで隊舎まで同行することになったのだ。

その日まで私の生活は単調だった。ただひたすらに息をして、命を繋ぐことだけを考えていた。いつか必ず浦原隊長に会う為に。それ以外のことは必要なかった。何かを楽しんだり、悲しんだりする必要なんてない。生きているだけでいい。

もしもあの朝が、いつもどおりの朝だったら。
私はきっと檜佐木副隊長になんて出会わず、ろくに話もしない私に彼が興味を持つこともなく、あの飲み会の場に私が誘われることもなかっただろう。

指先に灯った光の温もりに目を閉じて、私は思いを馳せる。

あの場で乱菊さんに出会った。十一番隊を異動して以来だった斑目さんとも親しくなった。彼らに触れて、私は変わった。

「……何笑ってんだよ」

不機嫌そうに尖らせた唇で班目さんが言った。その表情が本当に心の底から苛立たしげで、それが何だかおかしかった。そんなことを言ったら絶対に怒られるって分かっているから言わなかったけれど、顔に出てしまったのかその眉間に刻まれた皺が一層深くなった。

「不思議だなと思って」

結界の外ではあちこちで十刃との戦いが始まっている。耳鳴りのするほど大きな霊圧同士のぶつかり合い。その中でも異質なほど強大なそれは、破面でも虚でもなく中心に立つ元凶のものだ。総隊長の炎に阻まれていた時にはそうでもなかったのに、今はもう憚る気もないらしい。元々隊長格は私達とは格段に違う霊圧を持っているけれど、あれはそんな程度ではなかった。

―――十刃は強い。

現世で戦った破面を思い出す。並外れた霊圧と高い戦闘能力。一対一であれば隊長格ですら苦戦する彼らが、例え矜持に反するのだとしても揃いも揃って大人しく藍染の下についている理由を考えると、たった一つしか思いつかなかった。

けれども平子隊長だって強い。平子隊長だけでなく百年前姿を消した隊長格全てがそうだ。総隊長もまだ無傷に等しい。今は姿は見えないけれど、浦原隊長だってその内現れるだろう。虚圏へ行っている隊長達や黒崎くんだって合流するはずだ。

―――私には、なんの力もないけれど。

「総隊長がいて尚勝ちが確定しない戦いなんて、きっと尸魂界史上初ですよね」

首を竦めた私を、班目さんが不審そうに見る。お前、と零れた言葉の後に続く言葉を察して、「怖い顔しないでください」と苦笑した。

「それでも私負けるつもりなんてないんです」

私にはなんの力もない。この空座町の結界内にいる全ての死神の中で、きっと私は誰よりも弱い。回復役としてすら機能しない私がいたところで、戦況には何ら変化はないのだろう。それはとても悔しいけれどもどうにもならない現実だった。誰かを助けることどころか自分が生き残ることすら怪しい。私はそれに絶望していた。ついさっきまで。

「どうやってとか、そんなの想像もできませんが」

現実をちゃんと見れば見るほど、どうにかなるだなんて思えないはずなのに。平子隊長が笑ってみせたあの一瞬で、何かが変わってしまったのだ。

―――もしもあの日がなかったら、きっと私は今この場にいない。

浦原隊長に再会することも平子隊長に再会することもなく、今までどおりの日々を過ごしていただろう。今日だって、この結界の中でなく尸魂界で援護という名のお留守番になっていたに違いない。そう考えると不思議だった。あの日たまたまいつもより早く目が覚めたという、ただそれだけの偶然で私の未来は大きく変わったのだ。

十刃の霊圧が一つずつ消えていく。こちら側の全員が無事な訳ではないけれど、死者が出ていないのは多分間違いないと思う。後に残るのは、元隊長の3人。

「ねぇ、班目さん」
「……んだよ」
「私、班目さんに会えて良かったです」

班目さんは片手で不機嫌そうに片目を覆った。顰めっ面が更に険しい顔になる。彼は覆われていない方の目を下に向けてから目を閉じた。「縁起でもねぇ」と絞り出すように呟いた声が耳に届いて、私は苦笑した。

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