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ヒロイズム


「―――あ、」
「あ?」

角を曲がろうとした直前に、その先で上がった小さな声が耳に届いて足を止めた。お互いにもう一歩ずつ出ていればぶつかったかもしれない距離で、見上げる瞳と目が合う。

「……………。こんにちは」
「…よぉ」

何を言うべきかたっぷり悩んだような沈黙の後で、彼女は小さく首を傾げた。それに適当に返事を返して、俺はその姿を見下ろす。
良く見知った姿だ、と思う。けれど実際本人に会うのは至極久しぶりだったはずだ。面と向かうのは恐らく何十年ぶり。下手したらその時間は百年近い。既視感があるのは、少し前に彼女の義骸を作っていたからかもしれなかった。

挨拶をした後も、彼女は何か迷うようにその場に立ち尽くしていた。明らかに何か言いたげな様子だ。何となく気まぐれで、それに付き合ってやろうと思った。二歩離れたその場所で同じように立ちながら、俺はその言葉を待った。


『…っ阿近、』


『阿近、浦原隊長が…っ』


大して背の変わらない彼女が、両手で顔を覆う。その隙間から零れるように漏れた音を、雫を、覚えている。

何も知らずいつもどおり隊舎にやってきた俺を掴まえて、彼女は絞り出すように言った。その続きは言葉になっていなかった。既に隊舎は慌ただしく動き出しており、出勤したばかりの俺もその後すぐ追い出されるように自宅待機を命じられた。何があったか、尋ねることもできなかった。

後になって、事実は―――それは真実ではなかったかもしれないが―――断片的に伝えられた。涅副局長は浦原局長の言葉通り局長に上がり、十二番隊の隊長に任じられた。その頃には既に彼女の顔からは表情が消えており、代わりのように赤い花がその肩口に咲いていた。その花が何なのか、聞いたことはなかった。けれどそれが、彼女にとって残された唯一の希望なのだろうということは、何となく見ていて理解した。

春のように笑う奴だったはずだ。
そんなふうに例えるのは気障で馬鹿馬鹿しいことだと思うけれど、まだ彼女より背の低かった頃、確かにそう思っていた。寒い場所を抜け出して暖かな場所に辿り着いた時のような、そんなほっとするような顔で笑う奴だった。阿近、と名前を呼ばれるのが嬉しかった。けれどもそれが堪らなくこそばゆくて、いつも素っ気ない態度を取っていた。
その笑顔が、もう思い出せないほど昔のことになってしまった。

百年の間に何度も彼女を十二番隊舎で見かけたけれど、何かを求めるように彷徨うその視線が何を探しているのか知っていたから見ない振りをしていた。もういないんだと言ってやりたかったけれど、そんな風に言ったら彼女は壊れてしまうような気がした。どちらの方が優しいかなんて知らない。少なくとも当時の自分には、二度と直せない道を選ぶことはできなかったというだけだ。

『阿近、香波の義骸を用意して』

ある日唐突に松本乱菊がそう言った。技局の扉を手続き無視してガンガン叩くから何事かと思ったら、何よりも最初に要求を突きつけられた。そうして、こちらが返答するよりも先に『あの花もちゃんとつけてね』と付け足してとっとと踵を返したのだ。

『おい、ちょっと待て。ちゃんと説明しろ』
『今説明したじゃない』
『今のは説明じゃなくて要求だろう。何で桜木谷香波の義骸が必要なんだ』
『現世に行くからに決まってるでしょ』
『ハァ?』
『対破面の先遣隊よ。あとの理由は、あんたも分かってるでしょう』

当然のような顔をして、松本乱菊はそう言った。そうしてその意味を尋ねる時間も与えないまま、さっさとその場を後にしてしまった。

『あの花』は姫彼岸花だ。百年経った今でも彼女の肩口に咲いている。造形や香り一つとっても、本物の花を何らかの方法で延命させているとしか思えない。あれを残していったのが浦原局長ならば、そんなことは造作もなかっただろう。百年経った現在の技術開発局なら、似たようなことが出来ない訳ではない。
けれども、同じものを同じように作ってどうするというのだろう。彼女にとって特別なのは浦原局長の残した花一つで、同じものを作ったとしてもそれは何の意味もないのだ。だから敢えて香りをつけず偽物らしい偽物を作った。彼女が特別に思うものを、特別のままに。


「あの」


百年前は多少見上げる高さだった彼女は、今は俺の肩にも満たない。気まずそうに目を逸らしたまま、漸く心を決めたのかその口を大きく開く。

「阿近、」

百年ぶりに名前を呼ばれて、思わず目を見開いた。百年前と変わらない音で、彼女は俺の顔を見上げる。丸い瞳と視線が合って、ああ、こういう顔だった、と懐かしさに心臓が疼いた。

「ありがとう」

大きく開いた唇で、心持ち大きな声で、彼女はそう言った。予期していなかったその言葉に、辛うじて「何が、」と返すと彼女はまた少しだけ首を傾げた。

「義骸のお花」
「……」
「阿近が作ってくれたんでしょう」
「…松本副隊長か」
「そっくりだった。阿近はすごいね」
「…別に大したことじゃねえよ」
「でもとても嬉しかったから」
「そりゃ良かったな」

ぶっきらぼうに答えると、彼女は腑に落ちない表情をした。どことなく不満げだ。口を噤んだ彼女に、「何だよ」と先を促すとむくれたように唇を尖らせる。

「…小さいときはあんなに可愛かったのに」
「お互い様だろ」
「私の方が大きかったんだよ」
「今でも俺の方が小さかったらそれはそれで問題じゃねえか」
「でもこんなにニョキニョキ伸びるなんて思わなかった」

目線を逸らしてぶつぶつ文句を言う彼女の頬を摘む。柔らかい弾力が指先を押し返して、作った義骸の素材に思いを馳せた。もう少し柔らかい方がよかったかもしれない。
慌てた彼女が引き剥がそうと俺の手首を掴んだ。ぱっと手を離すと恨めしげに見上げる顔が本当に百年前と変わらなくて、思わず吹き出してしまった。「何で」とか「笑わないでよ」とか暫く不満を訴えていた唇が少しして動きを止める。憚るようにそっと持ち上げた手が俺の白衣の裾を掴んだ。一歩引けば簡単に振り払えてしまうような本当に少しだけの面積で、横たわった二歩の距離が零になる。

「……ありがとう」
「さっきも聞いた」
「違うよ。…あの花、阿近なら匂いまでそっくり作れたでしょう」
「!」
「だから、ありがとう」

どこまで理解しているのか分からない口ぶりで、彼女は小さく零した。目線を下げたその表情はもう見えない。ああ、そうだ。こんなふうに差が出てしまうほど長い時間、俺達は離れていた。近づけば思い出で彼女を壊してしまう気がして触れられなかった。狂おしいほど遥かな、遠い時間。

再び伸ばした手のひらをその頭に乗せると、彼女はぴくりと肩を揺らして顔を上げた。視線が合うときょとんと丸かった目が細められる。その温もりで、長い長い冬が終わった気がした。

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