zzz | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -


シニシズム


全てが終わったのだ、と思う。
思いもしないほど前から動いていた全ては、先日の一戦で終結した。大昔に見送った小さな背中は、やはり今回もあたしだけを残して行ってしまった。そして今度こそもう、帰らない。

口を開いては、出てくる言葉なんて思いつかないまま閉じることを繰り返していた。ここ最近あまり眠れていないせいか、頭が重い。ぼんやりとした思考とぼんやりとした視界でただ呼吸している。頬を寄せた机の冷たさももう感じない。

「……、あの」

こんこん、と憚るように小さなノックが聞こえて、それよりも小さな声が扉の向こうから聞こえた。凭れていた顔を起こすと、返答のないことを訝しんでかそっと引き戸が空いていく。からからという軽い音と共に、姿を現したのは決してこの場所でよく目にする姿ではなかった。ましてや、この時間に。

「…香波」
「あの、お疲れ様です、乱菊さん」

日頃からあまり表情を動かさない彼女は、困ったように小さく首を傾けていた。既に深夜とも言うべき時刻だ。隊務室には自分以外誰もいなかった。定時などとっくに過ぎているのに、九番隊である彼女が何の用で、とぼんやりしたままの頭が回転する。

「お部屋を訪ねたらまだお戻りでなかったようなので」

疑問に思ったことが伝わったのか、彼女が首を傾けたまま説明する。次いでお仕事熱心ですねと付け足された言葉が、皮肉なのか天然なのかは分からなかった。この子ならばどちらでもありそうだ。

「悪いわね、足労かけて」
「いえ。事前に何の連絡もしてませんし、私もただの思いつきでしたし」

前髪を掻き上げると、傾けていた首を真っ直ぐに戻して彼女は笑った。その笑顔が眩しかった。初めて会った日からは考えられない表情だ、と愛しく思う。

桜木谷香波という死神の話を初めて聞いたのは、随分昔のことだ。あたしと入れ替わるようにして十番隊から異動してしまった彼女のことを、残った人々は優秀な人材だったと惜しんでいた。対虚任務成功率九割九分。それは、護廷十三隊に於いて特別驚くほどの数字とはいえない。基本的に成功した者しか生き残っていないのだから、席官以上は必然としてその程度の数字を出すことになる。彼女が凄いのは、それでいて更に殉職率ゼロを誇っているというところだった。
けれど、あたしはきっとそれだけでは彼女に興味を持ったりしなかった。

「九番隊はどう?」
「檜佐木副隊長は最近終業後すぐに隊舎を出てどこかへ行ってしまうんです。仕事はきちっと終えてくださるので問題はないんですけど」
「……そう」
「ちゃんと休んでいらっしゃるのか心配です。……隊務中は普段と変わらないようにしてらっしゃるので」

ほんの少し眉を下げながら、香波は俯いた。間近で見ている彼女はさぞ心配に違いないけれど、修兵の藻掻きは前に進んでいる証で、自分を痛めつけてでもそうしたいと望む強い気持ちの現れなのだろうと思う。それは本来ならば、あたしも持っていなければならないはずの。

「まあ修兵だもの、多少無茶したってヘーキよ、意外とタフだし」
「……はい」
「香波がそんな顔することないんだから。あっちが何か言ってきたら、そのとき手伝ってやればいいのよ」
「そうですね」

眉を下げたまま、彼女は小さく笑った。苦笑のように見えるそれは、そうするしかないことを理解した上での表情だ。彼女は、そうすることでしか消化できない―――そうすることですら消化できない―――ものがあるということを知っている。


『………う、』


「ところで、あたしに何か用事?あんたがわざわざ訪ねてくれるなんて珍しい」
「あ、そうだった。今日うちの隊士から御裾分けをいただきまして、」

思い出したように話を変えると、手に持っていた包を持ち上げて彼女は再び首を傾ける。

「ご実家からたくさん送ってきたそうで、私も一人じゃ食べきれないほど頂いてしまって、」

そう言って、香波はいそいそと散らばった書類を端に寄せた。先程まで凭れていた場所以外は紙に埋もれていた机に、その天板の色が確認できるだけの小さな空き地が出来る。空いたスペースに包を置いて、彼女は再び困ったように眉を下げた。

「そしたら、副隊長が乱菊さんがお好きだって教えてくださったんです」

細い指先が解いていくそれを、ぼんやりと見ていた。視界が再び硝子のように曇っていって、あたしは目を細める。クシャクシャになった白い紙の中に、いくつも転がる丹色の塊。所々塗したように粉を噴いていて、一目見ただけで口の中に甘さが広がるようだった。

―――ああこれは、ギンが好きだった、

反射的に胸が軋んで、口を覆った。未だたった数日しか過ぎていない、あの戦いの光景が蘇る。表情が分からなくなるくらい笑った細い目は、最後まであたしを映してくれなかった。何度も名前を呼んで、叫んだけれど彼は笑うだけだった。どうして、と絞り出した問いにも答えをくれないまま。

乱菊さん、と慌てたような彼女の声に、あたしは嗚咽を堪える。あの日も、あの後も、数え切れないほど泣いたのだ。この子の前で泣くことは避けたかった。上擦った息で「だいじょうぶ、」と零してから、深呼吸をする。顔を上げると、今にも泣きそうな瞳と視線が合った。

「乱菊さん、あの」
「……ごめんね。何かちょっと、昔を思い出しちゃって」
「昔、って」
「ギンがね、よく作ってたのよ。干し柿」

小さく笑うと、彼女は口を閉ざした。ああ、こんな表情をさせたかったわけじゃないのに。苦笑しながら、あたしはもう一度意味もなく髪を掻き上げる。はらはらと滑り落ちる金色の向こう側で、密やかな息の音が聞こえた。

「……泣かないでよ、香波」
「……っごめんなさ、」

堪えきれないように眉を歪めた彼女は、何度も何度もその目を拭う。それでも頬を伝う雫が、ぽたぽたとその死覇装を濡らしていく。その様子を眺めながら、あたしは初めてこの子と言葉を交わした日を思い出していた。修兵が呼んだ酒の席で、突然に泣き始めたときのこと。恐らくは、浦原隊長の名を口にしたあたしの言葉をきっかけにしての。


『………たいちょう、』


あたしはあの日以前から、この子のことを知っていた。たった一度だけ遠巻きに見かけた姿。既に彼女が十番隊から異動して以降のことだ。十二番隊の隊舎の前だった。
名前と顔は把握していた。十番隊の隊士達が彼女を見かける度に口々に教えてくれていたからだ。だから、彼女はあたしを知らなかっただろうけれどあたしは彼女を知っていた。十二番隊士でもないのに何故そんなところに、と怪訝に思ったのを覚えている。書類を届けに来たのだろうか。その割に、彼女は何も手にしていなかった。
扉にそっと手を触れて、彼女は俯いていた。その唇が小さく動いたのが見えた。音は後から追ってきたように、少し間を置いて聞こえたような気がした。

その言葉が現十二番隊隊長を示したものではないのだと、すぐに理解した。かと言って、それは彼女が既に移籍していた九番隊の隊長を示すものでもなかった。十番隊に居た頃から、隊士達の間で小さく囁かれていた噂。彼女が十番隊に異動する以前、籍を置いていた隊についての。


『……うらはら、たいちょう』


第三者からの話しか聞き齧っていなかった彼女の本質を、その時初めて見つけたような気がした。この子はきっと、消えてしまった懐かしいものを待ち続けていたのだ。


「……馬鹿ねえ」
「………っ」
「あんたが泣く必要はないのよ」
「……っすみません、」

ぽろぽろと零れる雫を懸命に拭いながら、彼女は目を瞑る。あたしはその頬にそっと手を伸ばして、さっきまでの彼女と同じように少しだけ首を傾けた。何度も謝る彼女はきっと、今のあたしの気持ちが誰よりも分かるのかもしれない。


『ギン、どこ行ってたの、ギン』


いつだって、彼はあたしを置いていく。
目が覚めるとあたしは一人で、たった一部屋しかないあたし達の家のどこにも彼はいない。薄い上掛け一枚を羽織って扉を開けると、外は底冷えするような白銀の世界だった。そのどこにも、彼の姿はないのだ。

けれどもうあたしは大人で、彼以外のたくさんの仲間に恵まれていて、こうしてあたしの為に泣いてくれる人までいる。
だから悲しくても寂しくても、前に進まなければ行けない。乱菊、と名前を呼ぶ優しい音しか、残してくれなかった彼の為にも。


―――ああ、そうか。


彼女が掬い損ねた粒が頬を伝っていく。指先で拭うようにそれに触れると、何故か温かいような気がした。つられたように締めていた涙腺が緩んで、我慢しきれなかったあたしの頬を同じような雫が滑り落ちる。


―――あたしはきっとこの子に、自分を重ねてたんだわ。


ギン、と動かした唇は、音にならなかった。額を寄せるようにして、あたし達は泣いた。時たま聞こえる彼女の嗚咽と呼吸だけが、あたしの世界の全てだった。それ以外何も聞こえない。あたしを呼んでくれる少し低い声も、何も。

彼があたしを見ることはもう二度とない。あたしを呼ぶ声だって、そのうちに思い出せなくなってしまうのかも。それでも、あたしはきっと忘れない。絶対に、忘れない。


暫く泣いて、しゃくりあげる音が途絶え始めた頃、ふと顔を上げると同じように顔を上げた彼女と目が合った。ああ、目元が腫れてひどい顔だ。目も鼻の頭も真っ赤だし。そう思った途端、何だか可笑しくなって吹き出した。それは香波の方も同様で、どちらからともなくくすくすと笑う声が満ちる。きっとあたしもひどい顔をしてるに違いない。

「香波、」
「はい」
「……ありがと」
「……、はい」

彼女はまた少しだけ眉を下げて、それでも小さく笑ってくれた。

prev next