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眠れぬ夜


月から隠れるように壁の影をひた走る。長く現世に居たせいか、尸魂界の空気は軽い。呼吸すれば霊子を取り込めるような環境は久しぶりで、義骸に入っていないとなれば尚の事体が楽だった。
この時間、既に隊舎は人もまばらとはいえ誰にも出会わずに済むとは限らなかった。特に地獄蝶周辺には管理当番だったり警備だったりがいる可能性が高い。出来ればこのままこっそりと忍び込んでこっそりと出ていきたいところだけれど、それが許されるかは運次第だった。

「…………」

霊圧を出来るだけ低く、悟られないように小さくしながら私は眉を顰める。誰かに出会ってしまったらどうしようか。私は白伏を使えない。穿点や崩点を持っているのは四番隊くらいだし、邪魔をされないように排除するとしたらもう実力行使で伸す以外になかった。それは出来るだけしたくない。

地獄蝶を携行せずに穿界門を通るという手段もあるけれど、最後の手にしておきたかった。私は過去に一度として断界を通って現世に行ったことがない。地獄蝶を連れていない場合、無事に通り抜けられるのかどうか。また、穿界門を通り抜けた先がどこへ出るのか不確かなのだから、そうしなければならないとしたら本当にどうしても地獄蝶を手に入れられなかった場合のみだ。

昼間のあの苛立つほどに真っ青の空とは打って変わって、今はちぎったような雲がまばらに飛んでいる。その隙間にぽっかりと三日月が浮かんでいて、くっきりと地面に影を映し出していた。時折過ぎる見回りの霊圧を避けながら、私は唇を噛んだ。まるで本当に百年前のあの日のようだ。自分が走っているこの道が、今なのか過去なのか曖昧だった。

―――行かなくちゃ。

ただその一心で、足を動かしていた。これは過去の出来事じゃなく今起こっている問題なのだ。その背を追えなかったと後悔した自分は置いてきたはずだった。だから、自分で動かなくては。尸魂界は動いてくれない。今度も。

「―――オイ!」
「………っ」

控え目な怒鳴り声と同時に影から伸びてきた手に引き止められて、私の思考は一瞬で現実に戻った。
反射的に反撃しようとした私の手を押さえ込んで、口元を大きな手のひらに覆われる。まずい、と思ったときには既に引きずり込まれる瞬間だった。大きく身を捩ろうとした私の耳元で、「落ち着け」と低い声が囁く。その声にはっと振り向くと、三日月の光を眩しく照り返す頭に眉を顰めた。

「……班目さん」
「何やってんだ馬鹿」

班目さんの後ろには阿散井副隊長と朽木さんもいる。自室待機を命じられているはずの三人が何故こんなところに、と言おうとして自分もその一人であることに思い至った。口を噤むと、班目さんは呆れたように眉を上げる。

「まさかとは思うが隊舎に忍び込むつもりかお前」
「……そういう班目さんは何でここに」
「お前が一番そういうこと考えて尚且つ実行に移しそうだから様子見に来てやったんだよ」
「…………」

私は顰め面で目を逸らした。その言い方だとどうやら彼は私を止めに来たようだった。見つかったのが警備でなく彼らだったということは幸運だったけれど、そうとも言い切れない様子だ。

「バレないとでも思ってんのか」
「……バレないとは思ってません。でも現世に行かなくちゃ」
「何の為にだ」
「尸魂界は虚圏への経路を確立していません。行き方を知っているとしたら唯一、」
「浦原隊長に会いにいくつもりか」
「……はい」

頷くと、彼は息を吐いた。その手が最初に私を捕まえた時のまま、肩を強く掴んでいる。ああ、そういえば最近よくこうして班目さんに止められている気がする。普段の素行からしたら本来逆の立場のはずなのに。
ぼんやりと考えていた私の頭上から、「やめとけ」と想像していた通りの言葉が降ってきた。それにぴくりと肩を震わせると、掴んでいる手のひらに更に力が篭った。

「お前がここで忍び込んでみろ、騒ぎになるに決まってんだろうが」
「……でも、」
「その後のことを考えろ。最悪捕まって牢に入れられんぞ」
「でも、」
「落ち着けよ」
「でも尸魂界は織姫ちゃんを見捨てたんですよ!」

声を上げて仰ぎ見た彼は、軽く眉を顰めて私を見下ろしていた。掴まれた肩が痛い。振り払えないほどの力で、彼は私をそこに繋ぎ止めているのだ。その後ろ高くに三日月が浮かんでいた。その光が昼間の太陽のように思えた。

「…織姫ちゃんを助けたいんです、その為にまず現世に行かなくちゃ」
「警備がいないとでも思ってんのか」
「思ってません。でも、」
「とりあえずここは一旦引け。練り直す時間はまだ」
「時間なんてありません。総隊長はそんな時間くれない」
「お前―――」
「だって、」

全身が沸騰するみたいだ。逆行する時間と現実の奔流の中で、立ち尽くしたように私は叫んだ。ぐるぐると回るのはあの日の総隊長の言葉だ。どうしても忘れられなかった。その絶望を、憎悪を。

「だってあの人は、浦原隊長を助けてくれなかった……!」

絞り出すように言った言葉と殆ど同時に、桜木谷殿、と凛とした声が聞こえた。班目さん以外の手のひらがぽんと肩に触れて、私は大きく瞬く。視線を向ければ、優しい表情で朽木さんが立っていた。その小さな手が、私の肩に乗せられている。もう一度瞬くと、すっと体の熱が引いていくような感覚がした。

「井上のことは任せてください」
「朽木さん……?」
「私と恋次で、虚圏へ行ってまいります」

静かな声で、朽木さんは言った。諭すようでもなく説くようでもないその声音に、頭が冷えていく。

「…でも、どうやって」
「桜木谷殿が今言った通りの方法で」
「地獄蝶は、」
「問題ありません」

言ってから、朽木さんは少しだけ困ったように笑ってみせる。兄様が、と小さく唇が動いて、更に私は瞬いた。朽木隊長がそんなことをしてくれるとは思えなかった。けれど、彼もまた黒崎くんによって変えられた一人なのだ。有り得ないとは言えなかった。

口を閉じた私に、班目さんが「分かったか」と大げさに溜息をついて見せた。頷くに頷けず彼を見上げると、憮然とした表情に見下ろされる。

「恐らく旅禍は全員虚圏へ向かうだろう。それに朽木と恋次だ。十分過ぎる」
「…………」
「俺らには俺らの仕事ってもんがあるだろうが」
「………、はい」
「ここはこいつらに任せろ。お前はとりあえず一回井戸にでも突っ込んで頭冷やせ」
「………今ので十分冷えました」
「遠慮すんな。何なら俺が一発」
「冗談は頭だけにしてください」
「……コノヤロウ」
「有難うございます。本当に冷えました」

ふっと長く息を吐いて、私は目を閉じた。熱かった体は嘘のように落ち着いていて、足もしっかり地面を踏んでいる感触がある。月は眩しいけれど遠い。

「こっちは任せといてください。井上の一人や二人即奪還してやりますんで」

阿散井副隊長がにっと笑ってみせる。朽木さんが「井上は何人もおらぬわ!」と彼の頭を殴った。私は小さく笑って、頭を下げた。きっと、彼らは取り戻してくれる。そう信じられる、と思った。

「織姫ちゃんをお願いします」

小さな声で言うと、彼らはすぐに「はい」と声を揃えてくれた。

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