揺れる
それに最初に気がついたのは、多分私でなくて朽木さんだったのだと思う。
結局全員がテッサイさんと女の子(雨ちゃん、というらしい。喜助さんが名づけたのか聞いたら、彼はにっこり笑って答えてくれなかった)に治療を施してもらってから、私達は浦原商店を後にした。
喜助さんはあの階段を下りてからずっと難しい顔をして何か考えていたけれど、見送りに店先まで出てきてくれたときは百年前と同じ力の抜けるような笑顔だった。ああ、そうだ。彼がこんなふうに笑う度に、「何へらへらしとんねん!」と猿柿副隊長がどついていたんだった。
「香波サン、」
「はい」
「……、いえ。また」
「?はい、また」
背を向ける直前、呼び止められて振り向いた彼は一瞬何かを言いかけ、すぐに首を振った。帽子の影に隠れた瞳が困ったように細められて、代わりに次を約束するような曖昧な挨拶を投げられる。私は首を傾けながら、それに同じ挨拶を返して彼を見上げた。彼はそれ以上何も言わず、帽子と扇子に隠された笑顔からは何も読み取ることが出来なかった。
「香波?」
「……っはい、すみません」
足を止めていた私を促すように乱菊さんが名前を呼ぶ。それで漸く私は彼に背を向けて、先に歩き始めていた先遣隊の人達を追いかけたのだ。
―――私は知っている。
忙しなく伝令神機を弄り続ける乱菊さんの隣を歩きながら、治してもらった胸にそっと手を当てる。何があったわけでないのに、何となくそわそわとして落ち着かない。心臓の音がいつもより大きく聞こえて、その理由が分からないから尚気味が悪かった。
この町に居て、現時点で感じ取れる全ての霊圧に今のところ異変はなかった。相変わらず平子隊長の霊圧は感じられないし、破面が現れた様子だってない。これがこの町の普段の状態のはずだった。
ああ、でも私は知っている。
『香波サン、』
私の名前を呼んで、それなのに何も言わなかった喜助さん。
ずっと何かを考え込んでいたのに、へらりとした顔で「また」と笑った。
―――その表情の裏側に隠されたものを、彼は決して表に出したりしないのだ。
「………」
胸の上に乗せた拳をそっと握りこんで、私は目を伏せる。
百年前、予測をつけていた最悪が起こっても『大丈夫』と笑った彼は、今度だってきっと笑って何も言わないつもりだ。そうやって全部自分ひとりで背負い込もうとしている。異変はきっと、私の近くでもう既に起きているのだ。
「―――乱菊さん、」
「なぁに?」
「伝令神機、どうかしたんですか?」
ふと、気になっていたことを口に出すと小さな機械を前に格闘していた乱菊さんが顔を上げた。怪訝そうに眉を顰めながら、彼女は髪をわしゃわしゃとかき混ぜる。
「さっきの襲撃について尸魂界に報告しようとしてるんだけど、霊波障害が起きてるのか全然繋がんないのよ」
「霊波障害?」
つられたように眉根を寄せると、頷いた彼女が手にした伝令神機をぽいと放り投げた。慌てて受け止めて表示を見ると、確かに霊波の表示がない。私はあまり機会に詳しくないからその理由を推察することが出来ないけれど、それが非常に困ることだというのは理解出来る。
現状、尸魂界と私達を繋ぐものは基本的にこの伝令神機のみだ。それ以外の連絡方法が全くない訳ではないけれど、これが一番早くて確実な方法であることに違いなかった。
今回の襲撃を尸魂界は間違いなく察知しているはずだ。現れた破面は前回と殆ど違う個体、更に十刃の解放まで間近で見た私達は、その情報を速やかに上層部に伝える義務がある。その後今回の件を踏まえ色々な話し合いが行われた上で、今後の戦略や対応が変わってくるはずだった。
「このタイミングで……?」
呟いた私に、乱菊さんは何も言わなかった。暫くうんともすんとも言わない絡繰を見つめてから、私は彼女にそれを返す。受け取った彼女はまた難しい顔をしながらそれを弄り始めた。けれど、どうにもならないことは想像しているのだろうと思う。
探った霊圧に違和感なんてない。空座町は数時間前の喧騒が嘘のように驚く程静かだ。それがこの町のあるべき姿で、通常の状態のはずだった。たった一つを除いて。
「…………っ、」
握りこんだ拳に力を篭める。外れてほしい予感ほど当たるのだと経験則で知っている私は、帰り際に入り直した義骸の制服から義魂丸を取り出した。香波?と訝しげにこちらを振り向いた乱菊さんを余所に、躊躇いもせずそれを飲み込んで重い外身を脱ぎ去る。弾かれるように前につんのめった体で、そのまま灰色の地面を蹴った。驚いたように前方を歩いていた日番谷隊長達が振り返る。
「桜木谷!?」
「朽木さんに会いに行ってきます」
勝手な行動だと分かっていて止められないのは、それがただひたすらにその予感を拭いさりたいだけだからだ。そうであってほしくない。彼女はきっとほんの少し時間がかかってしまっているだけで、そのうちひょっこり穿界門から現れるだろう。そうしていつもの笑顔で「遅刻しちゃった」なんて頭を掻いてみせるに決まっている。
家々の屋根の上を出来うる限りの速さで駆けた。朽木さんの霊圧は探るまでもなく黒崎くんの家だ。彼の霊圧は変わらず微弱で傷の深さを思わせる。それでも、彼は生きている。全く霊圧を感じられない彼女と違って、彼は確かにここにいることを感じられる。
「……っ朽木さん!」
「桜木谷殿?」
開いたままだった窓から部屋の中に飛び込むと、窓際の寝台に横たわった黒崎くんの上を飛び越える形になった。あちこちに包帯が巻かれた姿はまるで双極の丘での戦いの後を思わせて痛々しい。朽木さんはそんな彼から少し距離を取るようにして、床の上に座り込んでいた。困惑した表情の彼女の手に、乱菊さんと同じ伝令神機が握られている。どくん、と心臓の音が再び大きくなった。
「どうしたんです、そんな」
「朽木さん、織姫ちゃんは」
「それが、尸魂界で別れて以降連絡が取れず…」
眉を下げた彼女の表情は最早泣きそうだ。想像していた、一番欲しくなかった解答を得て私は眉を顰める。
頭の中に鳴り響いているのは、心臓の音じゃない。あの日の警鐘だ。大丈夫、と笑った彼を追いかけられなかった。竦んだ足で、その背を見送ることしか出来なかった。
『大丈夫だよ、もう全然痛くないよ!』
そう言って笑った彼女の顔を思い出す。
私はまた、同じことを繰り返すのか。
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