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エゴイズム


―――会いたい、なんて言ったら、彼女は笑うだろうか。


「おやァ?どうしたんスか?珍しい」
「いや……ちょっと」

迷うような困ったような、微妙な表情を浮かべて店先に立っていたのは黒崎サンで。朽木サンを極刑から救い出し、藍染サンと一戦交えてから無事に現世に戻ったのが数日前。夏休みも終わりの頃のことだった。そういえばそろそろ新学期が始まる頃だと思ったけれど、彼が制服を着ているところを見るともしかしたら既に始まっているのかもしれない。昔の学生サンは九月一日から二学期というのが定番だったはずだけれど、最近は色々世の中も変わっているようで。まァ、現世の学生サン達の授業日数なんて全く関係ない世界のことですが。

「あの夜ご自宅にお送りして以来ですか。その後どうッスか?」
「何だそのざっくりした挨拶。……まぁ、特に変わんねぇよ、何も」
「そッスか」

残暑とはいえ、まだまだ暑い盛り。店の中は日陰だし、扇風機を回して涼しくはしているけれどそれでもこめかみを汗が伝う。この暑い中ボクが気がつくまで外に突っ立ってるつもりだったというなら、彼はもしかしたらMなのかもしれない。熱中症がどうのと町内放送やらテレビやらあちこちで叫ばれる昨今、中々命懸けな嗜好だ。ボクは暑いのは苦手だし、大人しく涼しいところでごろごろしていたい。パン、と懐から扇子を出して開けば、既に汗だくの黒崎サンの眉間に皺が寄った。ああ、やっぱり暑かったんスね。

「で?何か御入用のものでも?お安くしとくッスよ」
「別に買い物しに来たわけじゃねぇよ」
「ほう。なら、一体何のご用事で?」

関係のない話のときはぽんぽん受け答えができるくせに、本題を促せば即座に口篭る。未だ十六かそこらの子供なら致し方ないことなのだろう。そこが彼の良いところで、こんなのも年を重ねるごとにあっという間に見られなくなるのだと思えば微笑ましい。何を考えているのか大体想像がつくけれど、それをこちらから言うことはできなかった。それは随分昔、遠くに置き去りにしてきたものなのだから。

「……桜木谷香波」
「……」

彼は躊躇うように一度目を逸らし、暫く間を置いてから口を開いた。想定していた通りの話題だったのに、その名を耳にした瞬間心臓が脈打つ音が聞こえた気がした。年を取ったと思っていたけれど、案外ボクもまだ若いのかもしれない。まだまだ黒崎サンを青二才呼ばわりはできないなぁなんて心の中で苦笑しながら、ただ「懐かしい名ッスね」と茶化しておいた。そんなボクの心を読んでいるのか、黒崎サンの眉間の皺が深くなる。ああ、今なら何本かマッチ棒も置けそうだ。

「覚えてんだろ」
「忘れてはいませんよ。彼女はアタシの直属の部下でしたし」
「瀞霊廷で会った」
「そッスか。元気でした?」
「……それだけかよ」

黒崎サンが切なそうにボクを睨むので、ほんの少し顔の角度を変えて帽子の陰に隠れた。彼の表情は素直で率直で若くて、だからこそ直視するには堪えない。彼の首から下らへんにぼんやりと視線を合わせながら、ボクは嵐が過ぎるのを待っていた。今更こんなところで揺さぶられるなんてそんな馬鹿馬鹿しいことはない。

「赤い花、ちゃんとつけてたよ」
「そッスか」
「あんたの話をしたら、泣いてた」
「そッスか」
「……、何で」

淡々と同じ台詞を繰り返すボクに、耐え切れなくなった彼が声を荒げた。何で、とそれだけを呟く彼の言葉の続きを知っていたけれど、それに答えるわけにはいかなかった。だってまだ何も終わっていない。あの日彼女を残していくことを決めたボクの望みを叶えないままにそれを選ぶだなんて、百年前のボクが浮かばれない。ボクは他ならぬボクのために彼女を置いてきた。誰にどんなに罵られようと。彼女がどれだけ泣こうと。

『浦原隊長、』

ボクを呼ぶ彼女の笑い声が、憎しみに変わろうと。
それでも、ボクは。

「……あいつ、すげー静かに泣くんだ」
「……そッスか」
「押し殺したみたいに、声も上げないで泣くんだ」
「…………」
「やりきれねぇよ」

その言葉からも声からも全てが、心の底から黒崎サンが彼女を思っているのだと理解できた。他人との境界がボクでは考えられないほどに薄いというのもまた彼の良いところなのかもしれない。井上サンといい彼といい簡単に他人に侵食されるのはデメリットのようにも思えるけれど、だからこそ彼らは見ていて面白いのかも。そんな風に言ったら、井上サンはともかく黒崎サンからは肘の一発や二発飛んできそうだ。

思考を、できる限り彼女から逸らそうと思った。黒崎サンが目の前にいる限り到底無理な相談だとはわかっていたけれど、そうでもしないと昔のあれやこれやが蓋をした奥底から湧き上がってしまいそうだった。彼女はこの百年、何度泣いたのだろう、とか。そんなことを考えたところで今更どうなるものでもないし、そんな感情は大昔に捨ててきたはずだ。一々考えていたらキリがない。ボクにはやることがたくさんあったのだから。

『香波サン、姫彼岸花の花言葉って知ってます?』
『……花言葉?』
『“また会う日を楽しみに”って言うんスよ』
『……葉っぱ、』
『ね。それを踏まえると、中々素敵な花言葉だと思いません?』

夕焼けに赤く染まった空の下、笑った彼女が愛しかった。周りには誰もいなくて、鳥の鳴く声と風の音しか聞こえなくて、世界にはボク達しかいないような錯覚を覚えた。ずっとこのままで居られたらいいのにと、現実味の欠片もない望みを抱かずにはいられなかった。

あの日彼女を連れて行くことが不可能だったわけじゃない。それでもそうしなかったのは、それが危険を伴うことだと分かっていたからだ。藍染サンからも尸魂界からも追手がかかる可能性が高かった。不安定な平子サン達を庇いながら戦うことは簡単なことではなく、何かあった時、彼女が命を捨ててもボクを守ろうとするだろうことは容易に想像出来た。それだけは何としても避けたかった。
けれど、置いていけば彼女はきっとボクを探そうとするだろう。あの子は頭が良い。下手をすれば限りなく真実に近いところまで辿り着いてしまうかもしれない。それもまた大きな危険だった。藍染サンの二面性に彼女が気がついたら、知らない振りをして今まで通り過ごすことなんてできないだろうから。計画の途中で真相に近づいた者を、彼がみすみす見逃すとは思えなかった。

そう、ボクはボクのために、彼女を置いてきた。

「……言いたいことは、それだけッスか?」

放った言葉が自分でも思ったより冷たくて、黒崎サンがびくりと動揺したのが目に取れた。ああ、大人気ない。自嘲を扇子に隠しながら、ボクは彼を見上げる。何か言いたげに口を開こうとした彼はそのまま俯いてしまった。こんな子供を虐めて楽しむ趣味はないのだけれど。言外の言葉に気がついたのか、「悪ィ」と小さく呟いたその姿はまるで叱られた幼子だ。

「黒崎サンの言いたいことは大体分かりましたァ」
「…………」
「ですがアタシは今まで通り彼女に会うつもりはないし、連絡するつもりもありません」
「……っ」
「そもそもアタシは追放された身ですし」

―――彼女のいない世界なんて耐えられないと思った。

赤い花にほんの少しだけ霊圧を残して、あの子の机の上に置く瞬間を今でも覚えている。
彼女はこの花を覚えているだろうか。それは一種の賭けだったけれど、きっと覚えているだろうとどこか確信めいたものがあった。『また会う日を楽しみに』とそんな言葉を残していけば、彼女はきっとボクを待つだろう。一途な子だから。いつまで信じてくれるかは分からないけれど、きっと待ち続けてくれるだろう。何度も泣くかもしれない。何の音沙汰もないボクを憎むかもしれない。それでも。

「さ。ほら、もう夕飯時ッスよ。妹サンがご飯作って待ってるんじゃないッスか?」

わざとおちゃらけた声で言えば、暫く罰が悪そうに視線を逸らしていた黒崎サンがふっと目を伏せた。もう一度「悪ィ」と呟いた彼が、何を思ってそう言ったのかについては考えないことにした。これ以上の醜態は彼を翻弄する大人として流石にどうかと思ったので。

「……時間とって悪かった」
「いえ。久々に懐かしい名前も聞けましたし、アタシは構いませんよ」
「なぁ、浦原サン」
「はい?」
「桜木谷はあんたを恨んでないよ」

最後のその言葉が、胸の深くを突き刺した気がした。辛うじて冷静を保ったボクを尻目に、彼はそのまま踵を返してしまった。「じゃあな」と残していった挨拶に答えることもできず、ボクはただその場に座り込んでいた。

彼女のいない世界なんて耐えられなかった。
何があっても守りぬくだなんて格好良い台詞を吐ければ良かったけれど、そんなことは出来なかった。ボクにはそんな自信がなかった。あの時全てが想定したとおりの最悪に向かって進んでいた。どんなふうに頑張っても、最悪の展開にしかならないように思えた。

置いていけば、彼女は必ず泣くだろう。ボクを恨むかもしれない。それでも構わなかった。

「……香波、」

それでもボクは、彼女を死なせたくなかった。


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