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目をつぶって


名前を呼ばれた気がして目を開いた。赤みがかった太陽が照らして逆光になった彼女がじっと佇んでいる。体の脇に手をつくと、ぎしりと縁側の床板が音を立てた。押し出すように力を篭めると、現実と変わらない重さで私は立ち上がる。

「決めたの?」

小さな声だった。けれど、それは凛と響いて、私の心の中に真っ直ぐ沈んでいく。頷くと、彼女は一言、そう、と呟いた。
一歩一歩確かめるように足を踏み出す。庭の土が擦れる音と、草を踏む微かな音が虫の声に溶けて消えた。彼女の正面に立ってから、私はその顔を真っ直ぐ正面に捕える。真っ黒な瞳と視線が合った。

「私は、生きたい」
「……何の為に?」
「私の為に」

言って、小さく息を吸った私と、相反するように彼女は息を詰めた。

「ずっと、ただあの人に会いたいってそれだけで生きてきたの」
「……うん、」
「あの人に拒絶されてしまったら、もう生きる意味なんて無いんだと思ってた」
「……うん、」
「でも、違うの。あの人が私をいらないと言っても、私は生きていたい」
「……何故?」
「同じ世界で、生きていたいの。理由なんて、大したものないの。それでも、」
「……それでも、生きていたいと願う?」
「うん」

彼女は暫く無言で私を見つめて、それから目を伏せた。息を吐くように微かに、そう、と零した声が聞こえた。私は両腕を伸ばして、彼女の首に回した。同じくらいの体格のはずなのに、その肩がひどく細いように思えた。
ぎゅっと抱きついた私の背に、躊躇いがちに腕が回される。ぽんぽんと二回、摩るように触れた。

「ごめんね、」

呟いた私の声に、彼女は首を振るだけだった。少しの間肩に顔を埋めて、私は彼女を抱き締めていた。私の半身。ずっとずっと、不安定な私の隣を歩いてきてくれた。
香波、と呼ばれて顔を上げると、小さく眉を下げて困ったように笑った彼女が私の肩を押す。

「香波が迷わないなら、私も迷わない」
「……うん、」
「香波が戦うことを決めるなら、私も戦う」
「うん、」

頷いた私の目を見つめて、彼女は破顔した。それは、長い間見ていなかった彼女の笑顔だった。

「忘れないでね」

とん、と両肩を押されて、私の体が後ろに傾ぐ。離れていく表情が寂しげなものではないから、私もそっと笑ってみせた。


うっすらと開いた視界に草色が映る。微かに鼻腔を煙草の匂いが擽って、私はゆっくりと瞬きした。乾燥してぼやけた世界は白っぽく濁っている。その中でも鮮やかなその草色は小さく上下するように揺れていて、呼吸しているみたい、とぼんやり思った。これは何の色だっけ。見覚えがあるのだけど。

小さく身じろぎをすると、畳が擦れるような音が聞こえた。もしかしたら私はまた布団に入らないまま適当に寝てしまったのかもしれない。左半身に床の硬さを感じながら私は目を閉じる。ああ、でも何だかここは温かくて気持ち良い。このままずっとこうしていたいくらい―――。

「……ん、」

頭上から降ってきた小さな唸り声に、私の意識はパチリと覚醒した。大きく二度瞬きをすると、ぼやけた視界にはっきりと色が戻ってくる。目の前の草色と頭の下に感じる腕の温もりを意識した瞬間、考えるよりも先に体が動いた。ばっと身を起こしてその勢いのまま後退る。そうして襖の枠に背中をぶつけ反動で後頭部をぶつけ、その痛みに思わず頭を抱えた。

「……んー?おや、お目覚めですかァ」

今しがた私が転がっていた場所で、眠そうな目を擦りながら浦原隊長が身を起こした。暢気そのものの様子で大きく一度伸びをした彼は、ついでに欠伸を一つする。
私はと言えば、頭を抱えたままばくばくと大きく鳴る鼓動の音に必死に耐えていた。全身が心臓になったみたいだ。さっきまで彼に触れていたはずの箇所が熱かった。このまま燃えてしまうのかもしれないと、現実離れしたことを思う。

「……っあの、私……!」
「目が覚めた途端そんな距離を取られると中々傷つくんですが」
「……」
「もう少しこっちに来ません?」

ほら、と両腕を差し出す彼はもう帽子を被っていない。よく見たら羽織も着ていなくて、どこに、と思った瞬間肩に掛かっていた温かさに気がついた。慌てて手をやると案の定それは私に被せてあって、そこから微かに燻った匂いがした。

「……私、」
「泣き疲れて眠っちゃったんスよ。糸が切れたんでしょう」
「……ご迷惑をおかけしました」
「いーえ。温かくて良い抱き心地でした」
「…………」
「そんなカオしないでくださいよ」

はは、と笑った彼の表情は百年前と何も変わっていなくて、寝起きの頭も相まった私は少し混乱する。長い長い夢だったんだと言われたら、今なら信じてしまいそうだった。
けれど百年前と違う草色を纏った彼が傍らに置いてあった帽子を徐に被ったので、現実に引き戻される。帽子の奥に翳った瞳をぼんやり見つめてから、私は慌てて肩に掛けてあった羽織を手に取った。膝立ちでそっと歩み寄ると、差し出したそれを彼は「有難うございます」と事も無げに受け取る。あっという間に彼は再会したときと同じ怪しげな駄菓子屋店主に戻ってしまった。それを少しだけ残念に思いながら、私は視線を俯けた。

「私、随分眠っていたんでしょうか」
「1時間程度ッスよ。午睡としては丁度良い時間ッスね」

どこからどこまでが現実だったのだろう。杜鵑草に会ったのは夢の中で間違いないのだけれど、その前が夢でない自信が無かった。眠って起きてしまえば尚の事。なのに目の前にいるのが当たり前のようにへらりと笑った浦原隊長で、より混乱していた。

「浦原たいちょ、」
「あー、そッスね、まずはそこから変えてみましょうか」
「……」
「ボクはもう貴方の隊長じゃない。そこは事実なんです」

困ったように彼が首を傾けたので、私は口を閉じた。彼はもう隊長じゃない。そんなこと、とっくの昔に知っている。それでもこの百年、私は彼を隊長と呼び続ける以外に無かった。私と彼との繋がりは、十二番隊を介したものでしかなかった。
他に何と呼んだら良いのか、見当もつかない。無難なのはさん付けだろうが、浦原さん、なんて隊長だった時よりも距離が遠くなった気がして悲しかった。決めかねて眉を下げると、彼は私を見て小さく笑ってみせる。

「喜助、と」
「!」
「名前で呼んでください」
「……っそんな、」
「ボクが呼んでほしいんです。お願い、聞いちゃいただけませんか?」

何でこんなことになったのだろう。ぐるぐると空回りを続ける頭の中に彼の名前だけが浮かぶ。おかしい。何にも考えられない。
膝立ちのままふくらはぎに腰を下ろして、私は握った拳を膝に置く。ああ、そうだ。こんなふうに正座して、彼の話を聞いていたはずだった。途中で私が泣き出すまでは。私が泣き出して前後不覚になってしまったから、話は途中なのだ。せっかく勇気を出して話をしようと決めたのに、何故いつもこんな中途半端なのだろう。

「香波サン」
「……っ」

穏やかに名前を呼ばれて、そこで再び思考が止まる。一文字に引き結んだ唇を小さく開け、躊躇っては閉じ、開き、を繰り返して、私はぎゅっと目を閉じた。

「き、……」
「……」
「きす、…け、さん」
「…よくできました」

心臓の音が五月蝿い。顔が熱くて目を開けられない。なのに、彼が嬉しそうに笑ったのが声の様子から分かって、私は目を閉じたまま更に顔を俯けた。

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