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断ち切れなかったもの


顔が見えないから、彼がどんな表情をしているのかわからない。なのに触れている額から鼓動が大きく脈打っているのが伝わってくる。その言葉を理解するまでに、時間がかかった。だって、訳が分からなかった。こんなに意味が分からないなら冗談にしても笑えるはずがない。

「貴方が泣くことも分かっていて、ボクは何も言わず貴方を置いていった」

浦原隊長の声は小さいけれどはっきりしていた。途切れ途切れに降ってくる言葉を聞きながら、私はただ百年間のことを思っていた。

「貴方が生きていてくれるなら、それで良いと思っていました」

あの日浦原隊長がいなくなってから、私の世界は変わった。目を向ければいつでも彼がいて、猿柿副隊長に蹴っ飛ばされて、涅三席は見ない振りをしてて、阿近は溜息をついていて、そんな日常を何度も探したけれど見つからなかった。浦原隊長の名前は誰もが憚って口にしなくなった。まるで彼なんて最初からいなかったかのように、その痕跡は跡形もなかった。涅三席のことを、隊長、と。呼べるようになるまでに、一体どれだけの時間が掛かっただろう。

「なのにここに来て貴方の泣き顔を実際に見て、……それで動揺するなんて、」

自嘲するような彼の言葉は懺悔にも聞こえた。けれどきっと彼は許して欲しいだなんて言わないし、思っていないのだ。口にすることで現状を確認しているのかもしれない。それともこれすらも、私のための優しい嘘なのだろうか。

「香波サン、ボクは」

何度も何度も夢を見て目覚めた。
寂しくてつらくて忘れたいのに、段々と薄れていく彼の声を忘れまいと必死になってかき集めた。周りのたくさんの人たちがどんどん彼を忘れていって、それが悲しいけれど羨ましかった。私もそうしてしまえればいいのにと願ったけれど、そうしたら生きていけなかった。相反する感情に、壊れてしまいそうだった。

「…………っふ、」

吐息が漏れて、それが聞こえたのか浦原隊長が言葉を止めた。頭の中がぐちゃぐちゃで、何を考えているのか分からない。どうしたらいいのか分からない。なのに、次から次へと湧き出てくる雫が私の視界を歪める。ぱたぱた、と浦原隊長の甚平にそれが落ちて濃い色の染みを作った。

要らないのだと思っていた。だから、私は置いていかれたのだ。彼に必要なかったから、という理由は至極シンプルでだからこそ説得力があった。要らない存在。必要ない存在。それでも、会いたかった。だから百年という時間も生きてこれた。

「……ふ…ぅ…っ」

―――ずっと考えていたの。私の百年に、意味なんてあったのかなって。

これは、夢なのかもしれない。それを求め続けた私に、耐え切れなくなった私が作り出した。

現実感のないふわふわとした思考だった。外界は遠くて、何の音も聞こえない。額に触れた温もりだけが私の全てだった。それが離れてしまうのが怖くて手を伸ばしたかったけれど、伸ばしたら本当に消えてしまう気がして膝の上の拳を握りしめた。

「……ぅー……っ」

背に回された腕に力が篭る。あの日同じように私を抱きしめてくれた班目さんの腕を思い出した。しゃくりあげる私がどれほどその死覇装を濡らしても、何も言わずにただ頭を撫で続けていてくれた。あの手のひらと同じなのに、それよりもずっと力強い。閉じ込められた腕の中で、彼の心臓の音まで聞こえてしまうようだった。

―――ああ、違う。これは。

耐え切れず開いた口から嗚咽が漏れる。触れられている全ての部分が熱をもって脈を打った。何にも聞こえない。自分の、しゃくりあげる音さえ。なのに、頭の上から「いいよ」という声が降ってきた気がした。それは優しい音で、私の覚えている彼の声で、百年間ずっと待っていたもので。

今日かもしれない、今日かもしれないと思い続けた。いつかきっと、遅くなってすみませんなんて笑いながら彼が姿を現すんじゃないかと。そんな風に、待ち続けた百年。

―――これは、夢じゃないんだ。

「うあああああん……っ」

開いた口から意味を成さない声が漏れる。膝の上で握った拳を解いて恐る恐る伸ばすと、羽織の裾に触れた。ぎゅっとそれを掴んでも、彼は消えてしまったりしなかった。
わぁっと声を上げて泣く私の背を、あやすように大きな手が撫でる。こんなふうに泣くのは初めてで、上手く制御できない。まるで子供みたいだ、とぼんやり思いながら、その心地良い体温に身を寄せていた。

『すぐ戻ります』

そう言って背を向けた貴方を見送ってから、百年。

「……遅くなってすみません、香波サン」

彼は小さくそう言って笑った。

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