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幸福論


おいで、と腕を引かれて立ち上がった私は、彼に抱えられるようにして再び浦原商店に戻ってきた。その場にいた全員が無傷では済まなかったので、「治療しなくちゃ」と彼はへらりと笑っていた。困ったような表情で班目さんや乱菊さんが顔を見合わせる。けれど、私達の困惑などどうでも良いのだろう。店内に入り地下の広い空間に案内された私達は、出迎えてくれた小さな女の子に「横になってください」と促された。そして。

「…っ大鬼道長!」
「おや、私をご存知ですかな」
「直接お見かけしたことは数えるほどですが……」
「こちらではテッサイと、気軽に呼んでくだされ」

黒縁眼鏡をかけた大柄なその人を前に、私は声を上げた。滅多に人前に姿を現さなかった彼を見たことはほんの数回だけれど、植えつけられた印象が強くてはっきりと覚えていた。ああそうだ、こういう逆光眼鏡と不思議な髪型の人だった。尸魂界にいた頃は確か外套を羽織っていて怪しさ倍増だったような気がするけれど、こちらでは簡素な服装に落ち着いたらしい。「浦」と一文字書かれた前掛け姿は、パッと見そんな立場の人だったというようには思えない。かと言って何に見えるかと聞かれたら困るけれど。

テッサイさん、は、横になった私の傍に膝をついてその大きな手を翳した。胸の辺りがふわりと暖かくなって、流れ込んでくる霊圧に私は目を細めた。肋骨が折れている上、どうやら近辺の大きな血管に損傷があったらしい。真っ直ぐこちらに戻ってきたから間に合ったけれどもしそうでなかったなら命の危険があった、と言うようなことを難しい顔をして彼は言った。

そして、誰よりも先に治療をしてもらった私は、浦原隊長に地上の店内に案内された。


「―――で、どうします?」

開口一番にそう言い放った彼の正面に正座して、私は口を噤んだ。
そこはそんなに広くない普通の和室だった。部屋の隅に置かれた箪笥と、差し出された座布団だけがその部屋の家具だった。障子戸と押し入れだろう襖が二つ。障子の向こう側は現世における一般家庭同様ガラス窓になっているようだった。

片膝を立てて座った彼からほんの少し離れた場所で、私は膝の上に乗せた拳を握った。ここに至るまでの間にできる限り頭の中を整理したつもりだったけれど、彼を前にした途端に全て崩壊してしまった。何を言ってもまた拒絶されてしまうような気がして、開こうとした唇が動かない。彼はと言えば、そんな私を前にしても特に何も言わず、冷たい表情でない代わりに優しい笑顔でもなかった。深く被った帽子のせいで、ちゃんと顔が見えない。なのにその奥の翳った瞳は、真っ直ぐに私を見ていた。視線を受け止められなくて、私は目を伏せる。どうすると言われても、と漸く口から出た言葉は、自分でも呆れるくらい震えていた。

「貴方が言ったんスよ、話をしようと」
「……そうですね」
「何の話をします?昔話ですか?それとも近況ですか?」

おちゃらけたように言う彼の目は別段笑っていない。それが居た堪れなくて、私は唇を噛む。勇気を出さなくちゃいけない瞬間があるとしたらまさに今だった。ここで頑張らなかったら、この先一生私は後悔するのだろう。聞かなくちゃと思っていたことがたくさんあったはずだ。言いたいことだってあった。それを百年、私は抱え続けていたのだから。

「百年前、の」
「…はい」
「あの日の、ことを。……何があったのか、教えてください」

浦原隊長は、逡巡するように少しだけ視線を逸らした。喉が渇いて張り付くようだった。大きく響く鼓動の音を聞きながら、私は彼の言葉を待っていた。これだけは絶対に譲れない質問だった。

「後悔をしませんか」

暫く沈黙していた彼は、低い声でそう言った。真剣な強いその音に、全身に力が入る。そんなこと、聞いてみなければ分からないというのが本当のところだ。それでももうとっくに決めていた。私は彼を真っ直ぐ見て、口を開く。

「しません」
「……何でそう言い切れるのか不思議なんスけどねェ」
「聞かないでする後悔の方が怖いです。私は、進むって、決めたので」

一言一言区切るように告げれば、彼の瞳がほんの少し大きくなった気がした。それは帽子の奥の出来事で、確認しようにもすぐに元に戻ってしまったけれど。はぁ、と大げさに溜息をついて、彼は苦笑した。敵わないなぁ、と呟いた声が聞こえた。

「貴方は聡い。知ってしまったら、知る前には戻れません」
「はい」
「大方の予想は、ついているんでしょう?」
「……予想は予想です。真実じゃありません」
「そッスね。その通りだ」

何度か頷いて、彼は座布団の上に座り直す。いいでしょう、と響いた声は冷たくはないけれど真っ直ぐで、私は背筋を正した。

「じゃあまずは昔話をしましょうか」

ぽつりぽつりと、あの日を遡る。警報が鳴り響く少し前のところから、彼は話し始めてくれた。
あの前後、魂魄消失事件というものがあったのは覚えている。けれど彼がいなくなって後、それはすっかり鳴りを潜めていた。あれも藍染隊長の仕業なら、もしかしたら今に至るまでにも発生していたのかもしれないけれど、少なくとも話題に上ることはなかったはずだ。

彼の話した内容は、私が考えていたものと近かったけれど遠かった。双極の丘で藍染隊長は崩玉について「死神と虚の境界線を取り払う」と言っていたけれど、行方不明になった八人の隊長格が虚化させられてしまったのなら、その手段は百年前既に藍染隊長の手の中にあったということになる。かたかたと震える手を強く膝に押し付けて、私は眉を顰めた。やはり藍染隊長はあの場で全ての真実を話したわけではなかったのだ―――もとよりそんなはずはなかったのだけれど。

浦原隊長の話を、私はたまに頷くだけで一度も言葉を発せずに聞き終えた。後悔しましたか、と彼は最後に聞いたけれど、それには首を振って答えた。

「一応これで全てのはずですが、何か質問とかあります?」
「……いえ、」
「おや、聞かないんですか?貴方を置いていった理由について」

告げられた真実を飲み込むのに時間をかけていた私は、その言葉にぴくりと体を震わせた。
何でこの人は、こうして私を揺さぶるのだろう。反射的に目の奥がじんわりと熱くなって、唇を噛むことで押さえ込む。それでも全く気にしない振りをするなんてことができるはずもなく、視線を俯けた。
何か言わなくちゃと思うのに、口を開くと余計なものまで溢れてきてしまいそうだった。何も言わない私を彼はただ見ているだけで、それを尋ねたのは彼の方なのに答えなんて気にしていないのかもしれない。

「……っいい、です。聞きません」
「何故?」
「そんなの、……自分で、分かってます」

何度も口を開いては閉じ、唇を噛み、を繰り返して、やっと絞り出した声に彼は容赦なかった。俯いたまま顔も上げられない私は、分かってます、ともう一度小さく繰り返す。それを聞きたいと思っていた時期がなかったわけではない。今聞かなかったことを、百年後の自分は後悔するだろうか。けれど、とてもじゃないけれど本人を前にして尋ねることはできなかった。

―――ああ、だめだ。

他にも聞きたいことがあった気がするのに。言いたいこともあった。だけど、もう言葉になる気がしない。これ以上ここにはいられない。彼の前で、みっともなく泣いてしまう前に。

「……その花、つけていてくれたんスね」

少しの間黙っていた彼が、小さく呟いた。流れから突然逸れた話題に、私は俯いたまま瞬いた。畳を擦る控えめな音が聞こえて、視界に草色の甚平を着た膝が映る。ふ、と顔のすぐ傍に触れた指に息を呑んだ。躊躇うようにあの花に触れた彼がどんな表情をしているのか、見上げる勇気はなかった。

「覚えてますか?香波サン。姫彼岸花の花言葉」

それは夢の中で何度も繰り返した彼の言葉によく似ていた。真っ白になった頭に、あの夕暮れの道が浮かんだ。空の色も風の音も、全て覚えている。忘れるはずなんてなかった。その言葉を頼りに、私は生きてきた。

「―――あの日、尸魂界を出なければならないとなった瞬間、一番に思ったのは貴方のことでした」

ぽつり、と彼は静かな声で言う。硬直したままの私は、ただ瞼を動かすことしかできない。意味が分かりません、と。いつもならすんなり出てくる言葉も飲み込んでしまった。確かに聞こえているのに、何を言っているのか理解できなかった。彼の長い指が、耳元を掠める。触れたのは一瞬だったのに、そこが熱を持ったように熱くなった。

「尸魂界から、藍染サンから、追手がかかる可能性が高かった。連れて行くのは危険だ。かと言って、置いていけば貴方はきっとボクを探すでしょう。頭のいい貴方のことだ、限りなく真実に近づいてしまうかもしれない」

今回のように、と苦笑するような声が降ってくる。いつの間にか、彼の指は花ではなく私の髪に触れていた。梳かすように、触れるか触れないかの微妙な仕草で彼は私の髪を撫でる。指一本すら動かせなくて、息をするのも上手くいかない。傷は直してもらったのに、胸が軋むように痛んだ。

「あの花言葉を、貴方なら覚えているんじゃないかと思った。だから、」

彼はそこで一度言葉を切った。沈黙が下りて、金縛りが溶けたように私は恐る恐る顔を上げた。帽子で影になった瞳が切なそうに伏せられている。視線を上げた私に気がついて目が合うと、苦笑いするような自嘲するような笑みを浮かべた。

―――何で、そんな顔をしているの。

私は足でまといで、役に立たないから。要らないから、置いていかれたんでしょう。それを知っているから、そんなこと貴方の口から聞きたくないから、だから尋ねなかったのに。

「だからボクは、この花を残していきました」

髪に差した赤い花に触れていた手が、躊躇いがちにそっと頬に触れる。その指先が記憶にあるそれよりもほんの少し冷たくて、私はぴくりと肩を揺らした。その反応に彼は一度手を離そうとして、思い直したのか今度は両手で私の頬を包み込む。ひんやりとした大きな手のひらの感触に、瞬きすらできなかった。

百年前のあの日、部屋に戻った私が最初に見つけた姫彼岸花。さよならさえも残さず消えてしまった貴方の、たった一つの痕跡。貴方がここにいたのだと、私の傍にいたのだと、そう言える唯一の証。

「ボクは、」

言いかけた浦原隊長が、言葉を切った。唇が小さく開いては閉じてを繰り返している。それはまるでついさっきまでの私のようで。そうしてそれは一文字にぎゅっと結ばれた。その瞬間、私の視界が布を被せたように暗くなった。

何が起きたのか、理解するまでに時間がかかった。

目の前にはついさっきまで見ていた草色。何の色だったっけ、なんて遅くなった思考回路でぼんやりと考えれば、ああ浦原隊長の甚平だ、と思い出す。尸魂界にいた頃の漆黒とは違う、今の浦原隊長の色。帽子も甚平も羽織も同系色で、緑が好きだったんだっけ、と他人事のように思った。視界が暗くなったのは、単にこの色が近くなりすぎたからということのようだった。

一拍遅れて、ぎゅっと引き寄せられた後頭部に触れる手のひらの大きさを認識した。もう片方の腕は背中に回されていて、私の体は前のめりに彼の胸に寄りかかっている。その体に直接当たる額が熱い。何、と開いた唇は開いただけで音を成さなかった。

「―――この百年間、ボクがたった一つ望んだのが貴方の生だと言ったら、笑いますか」

降ってきた声が少しだけ震えている気がした。

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