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割れたガラス球


噎せ返るような血の匂いとその色が、否が応にも双極の丘の出来事を思い出させる。這いつくばってただ彼らの姿を見ていた。茶色い砂に赤い血が染み込んでどんどんどす黒く変色していくところを。絶望に暮れる瞳を。

―――霊力が上手く上がらない。

翳した手のひらにもう片方の手のひらを重ねながら、私は内心焦っていた。額に浮いた汗がこめかみを伝っていく。ぼんやりと暖かな光が不安定に揺れて瞬いた。その度に、落ち着け、と自分を叱咤する。

回道は本来四番隊が得意とする鬼道の一種だ。応急手当くらいは出来るよう霊術院で授業があったし、入隊後も訓練している。とはいえ、向き不向きが大きく影響するらしいそれは、四番隊以外の死神は殆ど上手く扱えないといってもいい。そしてそれは私にとってもその通りだった。

「頑張って……っ朽木さん、」

苦しむような表情すら見せない彼女は、ほんの少し眉を寄せたまま目を閉じて動かない。血は止まってきたけれどそれは外側の話で、未だ抉られた臓器や骨は治せていなかった。このままじゃ、危ない。

どん、と爆発するような霊圧を感じて顔を上げると、一時に何箇所かで爆発的に霊圧が高まったようだった。一瞬破面かと身を固くしたけれど、すぐに違うと理解して目を伏せる。今回、三席以下の班目さん、綾瀬川五席、朽木さん、そして私の四人は限定印を押していない。探るまでもなくそれが副隊長以上のものだと分かった。つまり隊長格ですら、限定印を押した状態では倒せないのが破面なのだ。

けれどもそれはある種の朗報でもあった。霊圧の大きさを比べれば、限定解除した彼らが負けるはずはない。すぐに戦闘中の相手を倒して、こちらに加勢してくれるだろう。それまで何とか耐えられれば。

「ガッカリさせんじゃねェよ死神!卍解になってマトモになったのはスピードだけか、あァ!?」

空中で戦っていた黒崎くんを叩き落として、破面が苛立ったように声を荒げる。砂煙を上げて吹き飛ばされる彼を追いたい気持ちを必死に抑えて、私は顔を顰めた。挑発だ。乗ってはいけない。黒崎くんの身の内には虚がいる、という話をしていたのは今目の前に横たわる朽木さんその人だった。霊力を使う度に、彼は虚に近づいていく。だめ、と叫びたかったけれど、それに何の意味があるのだろう。私が代りにあの破面を倒せるわけではない。時間を稼ぐのもそろそろ限界だと、黒崎くん自身が一番分かっているはずだ。

―――ああ、やっぱり私は、役に立たない。

黒く湧き上がるような霊圧を背後に感じて、私は俯いた。戦闘で役に立たないならせめて、今出来る精一杯のことをすべきだ。

「月牙、天衝!」

大きく高まった霊圧は刃のように鋭い形のまま破面へぶつかっていった。爆発音と共に煙に消えた破面の姿は見えない。咄嗟に身構えた様子は見えたけれど、与えられたダメージの程は分からなかった。それでも今までになくその霊圧が震えて、少なくとも想定外を叩きつけられたのだということは感じられた。

「そんな技……、ウルキオラからの報告にゃ入ってなかったぜ、死神…!」

風に巻かれて砂塵はすぐに消える。その中から現れた破面の体には大きく一太刀の刀傷がついていて、不意に双極近くで倒れていた阿散井副隊長を思い出した。あの時もたった一つの傷で彼を倒した様子だった。その戦い方が真っ直ぐで強い彼の性格を表しているようで、逆に危うさを感じるのは私だけなのだろうか。私が彼を信じきれていないだけなのだろうか。

黒崎くんの息は荒い。片目を抑えるように手のひらで顔を覆っていて、彼が戦っているのは目の前の敵だけではないのだと思った。もし。もしも彼が今、内なる虚に負けてしまったら。私は彼を止めて破面と戦い、朽木さんを逃がさなければならない、とふと背筋が冷たくなった。モロに食らった割には破面の傷が浅すぎる。あの霊圧をぶつけてその程度なら、彼らを倒すためにはどの程度の力が必要だというのか。

「上等じゃねぇか死神!これでようやく殺し甲斐が出てくるってモンだぜ!」

対する破面はひどく上機嫌な高笑いで私達を見下ろしていた。その言葉と表情に、彼が本当に十一番隊的感覚で戦いに挑んでいるのだということを理解した。目的がどうであれ、そういう輩が一番面倒なのだということを私はよく知っている。

ぴくり、と朽木さんの指先が動いた。息苦しそうに大きく胸が上下して、表情が一層険しくなる。多分もう少し頑張れば意識も戻るだろう。時間はかかっているけれど、確実に傷は癒えている。もう少し。私は指先に力を篭めた。あともう少しで、少なくとも峠は超える。何とかそこまで持っていかなければ。

「次はこっちの番だぜ」

冷たく言い放って、破面が刀に手を触れる。今まで一度も武器を使わなかったのに。黒崎くんが目を見開き、私も同時に身構えた。何かがあれば、すぐにでも朽木さんを抱えて退避しなければならない。

けれど、その『何か』は起きなかった。不意に現れたその人に、一番驚いているのは破面のようだった。二番目は間違いなく私だ。動揺したように揺れた指先の光が、ふっと消え失せる。

「刀を納めろ、グリムジョー」

彼の声は以前と変わらず、静かで異論を許さない真っ直ぐな音だった。思わず刀を抜いて立ちかけた私の前に、黒崎くんが立ちふさがる。ああ、これじゃああの日と同じだ。双極の丘で見送ることすら出来なかったその姿に、沸騰するように身が熱くなるのに頭の芯は氷を差し込んだようだった。彼を思って今も時折表情を曇らせる檜佐木副隊長を思い出した。

私達のことなどどうでもいいかのように、彼と破面だけで話が進む。藍染様、と口にした名前を聞いて私は唇を噛んだ。踵を返した彼の前に、空間の裂け目が現れる。虚が使う黒腔への入口だ。虚圏を拠点として、破面や大虚を従える彼らなのだからそれは至極当然のことだったのかもしれない。そんなこととっくに知っていたのに、今更思い知る。私の思っていた彼は、もういないのだ。

「待てよ!まだ勝負はついてねぇだろ!」

続くように背を向けた破面に、黒崎くんが怒鳴る。柄を握る手に力が篭った。私はじっと、彼の背中を見ていた。

「ふざけんな、勝負がつかなくて命拾ったのはてめえの方だぜ、死神」

振り向いたのは破面だけだった。彼はこちらを振り向かない。私に気づいていないはずがないのに。一言の言葉すらない。

「グリムジョー・ジャガージャック。この名を次に聞く時が、てめえの最後だ」

彼らを吸い込んだ裂け目が閉じていく。捨て台詞を吐く破面の後ろの彼が、見えなくなっていく。

「東仙隊長!」

耐え切れずに叫んだ私の声が、静かな住宅街に響いた。隙間が閉じる瞬間まで瞬きもせずに見ていたけれど、彼は結局私を振り向かなかった。その事実が悲しくて悔しくて、すぐ横にあった石の塀をがん、と殴る。拳が痛んだだけで、何の意味もないことくらい分かっていた。桜木谷、と。一度でいいから、名前を呼んでくれれば。

ふっと息をついて、伏せていた目を上げる。足元にはまだ朽木さんが横になっていて、その苦しそうな息遣いで我に返った。黒崎くんを見やると、彼は未だ破面達の消えた辺りを見つめていた。その背中が辛そうで、私はすぐに目を逸らした。

膝をついて小さな体を抱え上げる。腕にかかった重さと少しひんやりとしたその温度が今の私の全てだった。あちこちの霊圧が静まって、危機は去ったのだということを伝えていた。すぐにでも朽木さんを、織姫ちゃんのところへ連れて行かなければ。

「……、先に行きます」

何を言ったら良いか分からず、かと言って無言のまま立ち去ることは出来なくて私はそれだけ告げてその場を駆け出した。黒崎くんは何も言わなかった。

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