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置き去りにした全て


ずっと考えていた。
私が無為に過ごした時間に意味はあるのか、と。彼を思って泣いた夜に、意味はあったのか、と。


「いたた、いた!痛いです乱菊さん……!」
「もうちょっとだから我慢なさい!」

後ろ髪を引っ張られる、という慣用句があるけれど、今の私はまさにそれだ。手のひらに乗せた赤い花を落とさないように潰さないように大事に抱えて、ただ痛みに耐えていた。別に彼女が嫌がらせでそんなことをしているわけではない。穿界門に入ってすぐ、「そういえば香波っていつもおんなじ髪型よねぇ」なんて思いついたように呟いた言葉がきっかけで、「違う髪型にしてあげる!っていうかいじらせて!」と普段から空気の読めないやちるちゃんも真っ青な「今ここで!?」発言が出て、あれよあれよという間にこんな状態になったのだ。もし誰かのせいにするのだとしたら、断りきれなかった私のせいか助け舟を出してくれなかった日番谷隊長以外の全員のせいだ。

「オイ、松本。……そろそろ離してやれ」
「えー、あとちょっとなんでもう少し待ってください」
「待つのはオレじゃなくて桜木谷だろうが」

現世まで大して時間がかかるわけじゃないんだからやめておけ、とか、歩きながらそんなことできる訳ねぇだろうが、とか。彼はこの状態に至るまでにも色々と言ってくれたけれど、自隊の隊長の言うことを乱菊さんは全くといっていいほど聞き流した。返答をしているのだから無視しているわけではない。受け流しているのだ。その度に日番谷隊長の眉間に皺が寄っていくのだけれど、頭を固定されてからはそれも見えなくなってしまった。現状がどうなっているのかは分からない。

「……、よし。これでオッケー」
「おっけー?」
「ばっちりよ。そのお花、ここに差してくれる?」

差すから貸して、ではなく花を持った私の手を導いて示してくれたのは彼女の心遣いなのだと思う。絶対に他人に触れられたくないだなんてことは言わないけれど、自分の見えないところに自分以外の手で飾られたら不安になることは間違いなかった。わけのわからないことばかりだと思っても、乱菊さんが私を思ってくれているのだということは伝わってくる。

指示されるがままに後頭部に手を回して、ここ、と示された場所にいつものように花を差した。どんなふうになっているかは鏡を見ていないので分からないけれど、乱菊さんがしきりにうんうん、なんて満足気に頷いていて、少し後ろから「おお」と朽木さんの声も聞こえた。男性陣のリアクションはないけれど、髪型を変えたことに関する反応なんて期待していないので気にならない。それよりも、普段ちらりとでも目に入る花が全く見えない位置にあることが少し心許なかった。そわそわと後頭部を触ったり触らなかったりを繰り返していたら、乱菊さんが「じゃあ、」と声を上げた。

「こっち。こっちならいつもとそんなに場所違わないし、そんなに気にならないんじゃない?」

再び示されたのは右の側頭部だった。乱菊さんに手伝ってもらいながらそっと後頭部の花を外して「ここ」と言われた場所に差す。ぺたぺた触った感触だと、どうやら側頭部は編んでもらっているらしい。目の横だからか長く伸びた花糸がちらちらと見えるし、ふとした瞬間にほんのりと甘い香りがしてほっとした。

「ありがとう、ございます」

漸く完全に解放された私は覚束無い所作で小さく頭を下げる。普段と違う髪型だから、動くと花が落ちそうで少し不安になる。乱菊さんが編んでくれたのだから、恐らく大丈夫だろうとは思うのだけれど。慣れない髪型は新鮮で、何だか不思議な感覚だった。

「桜木谷殿!よくお似合いです」
「朽木さん。ありがとうございます」
「今度あんたもやってあげるわね」
「本当ですか、松本副隊長」

後ろから駆けてきた朽木さんが加わって、女子三人で並ぶ。こんなふうに歩いていると、まるで遠足のようだ。そんな気軽なものではないのだと理解しているけれど、出来たらあまり考えたくなかった。考えないように意識している今でさえ、段々と足が重くなってくるのを感じていた。

「これ、どうなってるんですか」
「サイドの髪を編み込んで、そのまま後ろでハーフアップのお団子にしただけよ。道具があればもっと色々してあげたいんだけど」
「はーふ?」
「あんた本当にカタカナ弱いのね」
「外来語なんて現世でしか使わないじゃないですか」

冗談のような言葉を軽く返しながら、私は必死に左右の足を動かす。もう出口はすぐだ。そもそも遠い道のりではないのだから、あっという間についてしまうのだって当たり前の話だった。乱菊さんが髪をいじってくれたりこうして一緒に歩いてくれたから何とか誤魔化せたようなもので。もしもこれが一人だったとしたら、途中で歩みを止めてしまわない自信がなかった。

「―――出るぞ」

日番谷隊長が静かな声で言った。その言葉が耳に大きく響いて、心臓が小さく跳ねた気がした。丸い障子戸がもう目の前に現れていて、彼が前に立つと同時に静かに開く。日番谷隊長に続いて乱菊さんがその戸を潜った。一瞬躊躇った私の背を押して「モタモタすんな、」と乱暴に言い放ったのは班目さんだ。どん、と突き飛ばされてつんのめるように私は戸の外に出る。薄暗かった今までと反転するように明るい景色が広がった。

そこは、どこかの路地裏のようだった。辺りは住宅街なのだろう。木造建築物の多い尸魂界と違って様々な色合いの家が並んでいる。ほとんどの家の周りは鼠色の塀で囲まれているか、垣根で区切られていた。出発した時とさして変わらず、時刻は昼前と言ったところなのだろう。たまに自動車の音がするだけで、閑静な街並みだった。任務などで見慣れた現世の街だ。人通りはないけれど、あったとしても未だ義骸に入っていない私達は人目を気にする必要がなかった。

「よし、全員いるな」

日番谷隊長が言ったのは、阿散井副隊長の背後で閉まった障子戸を見てからだった。歩いてきた順番通り、私達は全員この場に立っていた。気だるげだったり興味深そうだったり真面目だったり、その面持ちは様々だけれど、私以上に緊張していた者はいなかっただろうと思う。尸魂界と違って石で固められた地面に接する足が小さく震えるのを隠すので精一杯だった。これ以上どうやって動いたら良いのかも分からない。

「黒崎の居場所に向かうにしても、まずは色々済ませねえとならねえ準備がある。とりあえず、当初の予定通り浦原商店とやらに向かう」

確認するように日番谷隊長が全員を見やる。私と目が合った瞬間、怪訝そうな表情をされたけれど見なかったことにした。言い訳の一つも浮かばなかった。

「そこで今後のことを相談してから、だな。―――桜木谷、」
「……っはい」
「具合悪いのか。顔青いぞ」

視線が集まって、私は俯いた。大丈夫ですとも大丈夫じゃないですとも言えずただ首を振ってみせる。ああ、どうしよう。後悔しないように、と決めてきたのに。頭に反して体が言うことを聞いてくれない。ちゃんと見ておいで、と浮竹隊長が言ってくれた。自分の足で動いて、自分の目で見て、自分の耳で聞いて。百年間に蹴りをつけるために来たのに。こんな状態じゃ、来て早々帰されてしまうだろうか。そんなのは嫌だった。けれどこれじゃそれすらも駄々にしかならない。

どうしようどうしよう、とそればかりが頭をぐるぐる回って、緊張と相まった私の思考は大きく混乱していた。冷静にならなければ、どちらにしてもこんな状態で彼に会うことなど出来ない。落ち着かなきゃ。深呼吸して、まずは足の震えを抑えなくちゃ。ああ、でもどうやったら落ち着けるんだろう。上手く息が吸えない。

「日番谷隊長、こいつとりあえず置いていきましょう」

声を上げたのは班目さんだった。置いていく、という単語に絶望して顔を上げると、彼は真っ直ぐ私を見て、歩み寄ってくる。死覇装の胸倉を軽く掴まれて、その顔が至近距離まで近づく。こんなことが前にもあった。旅禍に負けた彼が、救護詰所で浦原隊長のことを教えてくれたときだ。オイ、と低く小さく呼ばれて、私は彼を呆然と見上げることしかできない。

「先に行くから、てめぇはとにかく落ち着け」
「……っ」
「そんなんじゃあの人に会えたって何もできねぇだろうが」
「……っ、はい」
「落ち着いたら、追ってこい。……場所は知ってるな」
「……事前の、顔合わせで」
「よし」

班目さんは頷いて、手を離した。ほんの少しよろけた私に背を向けて、日番谷隊長に向き直る。

「こいつスゲー緊張しいなんすよ。ちょっとほっときゃ治るんで、俺らは先行きましょう」
「しかし、」
「店の場所は顔合わせんときの話で把握してます。落ち着いたら勝手に追っかけてくるっすよ」
「……、そうか」

腑に落ちないような表情をした日番谷隊長が、一度こちらを見た。班目さんはああ言ってくれたけれど、帰れ、と言われるのかもしれない。初っ端からこれじゃ役立たずにも程がある。大きく鳴る心臓を上から押さえるように胸元で手を握ると、彼は少しだけ目を細めてから「仕方ねぇな」と呟いた。

「ちょっと休んだら追ってこいよ」
「……っはい!」

溜息混じりだったけれど、残してくれるというその言葉に私は大きく返事をした。彼は少し笑って、「行くぞ」と他の人達に声をかける。朽木さんと乱菊さんが心配そうに少し振り向いたけれど、班目さんはこちらを見なかった。彼らの背中を見送って、私はそっと息を吸い込む。

また助けられてしまった。彼には迷惑をかけてばかりだ。尸魂界に帰ったら、きちんとお礼をしよう。そのために。

吸って、吐いてを意識しながら繰り返していくと、少しずつ心臓が落ち着いていく気がした。きっとこのまま続けていけば、足の震えも止まる。

彼に報いるためにも、私はきちんとあの人に向かい合わなければならない。

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