zzz


溺れる先に見た楽園


「桜木谷殿!」

凛とした声に呼ばれて立ち止まった。聞き覚えのある声だったけれど咄嗟に誰のものか出てくるまでに近しい人の物ではなくて、振り返るまでのほんの数秒私の頭は高速で回転する。双極の丘で見た姿とそれが一致したのは、彼女の顔を認識した瞬間だった。目を丸くした私に駆け寄ってくる姿は、小柄で華奢な体で。

「朽木さん」
「あの、お久しぶりです!」

一番印象に残っている姿が襦袢のように真っ白な浴衣だったからか、死覇装を着たその姿が逆に新鮮に映って目を細める。最後に会ったのは旅禍を見送った穿界門の前だった。その時にも思ったけれど、元気そうな彼女を見ると心底ほっとする。

「もう体は良いんですか?」
「私はもう全然。四番隊に霊力を回復していただきましたので」

全快をアピールするように、彼女は小さい体を一杯伸ばして力こぶを作ってみせた。微笑ましいその姿につい「それは良かった」と私は笑う。朽木さんの衰弱は殺気石で霊力を封じられていたことが大きいから、削られていた分を戻してもらえれば影響は少なかったのかもしれない。ただ今回、彼女にとって一番大きな傷は精神上のものだろう。噛み合った歯車があったとしても、その身に崩玉を埋められ人間にされかけた挙句殺されるところだったなんてどんな冗談にも出来ない。それに最も関わっているだろう彼のことを思うと、もっとやるせなかった。

「その節は本当にご迷惑をお掛けしました。もっと早くにご挨拶したかったのですが……」
「ドタバタしていたのだから仕方ありません。朽木さんは一番大変だった当事者なんですし」
「……ありがとうございます」
「いえ。私も何か出来たわけではありませんし」

苦笑すると、困ったように朽木さんの眉が下がる。ああ、しまった。事実とは言え上官があまり自虐しても困るばかりなのは当然だ。私は話題を変えるべく、「ところで突然どうしたんです?」と本題への道筋を立てた。

過去を遡っても、彼女から私に話しかけてきたことはほぼ無いと思う。無論私から彼女に話しかけたこともない。挨拶ならしたかもしれないし、仕事上の関わりも生じたかもしれないがその程度だった。私は彼女を嫌いではないし彼女も同じだろうと思うけれど、反対に彼女を特別好きだったわけでもない。お互いにそんな感じだったはずだ。だから、こんなふうに話しかけられたことは間違いなく初めてのことだった。

先程阿散井副隊長と班目さんに聞いた話を思い浮かべた。朽木さんが入っていたのは実力も然ることながら黒崎くんに最も近しい人物ということだろうと思う。けれども先の話の際、彼女はいなかった。私が咄嗟に頷いてしまったことをまだ知らないはずだった。

「お礼を言わねばと思って」

朽木さんが少し見上げるようにしながら真っ直ぐ視線を合わせてくる。お礼、という想定していなかった単語に私はきょとんとした。心当たりなどなかった。何の話、と聞き返そうとした瞬間、彼女は大きく頭を下げ、私は口を噤まざるを得なかった。

「双極の丘で助けていただいて、ありがとうございました」

迷いのないはっきりとした声で彼女は言う。
最初に浮かんだのは、誰か人違いではないかということ。私は確かに双極の丘にいたけれど、本当に『居た』だけで何もしなかった。助けるだなんて以ての外だ。私はただそこに転がっているしか出来なかったのだから。誰か他の彼女を助けた人と、そこに私がいたという事実がこんがらがった結果が彼女の言葉ではないかと、そう思った。
けれど顔を上げた朽木さんの表情は穏やかで、その目は真っ直ぐに私を捉えていて。動揺した私はうまい言葉が浮かばず、ただ口を開けたり閉めたりしていた。やっとのことで「私は何も、」という言葉を搾り出すと、彼女はすぐに首を振る。

「桜木谷殿はあの日、私と恋次を庇って下さいました」
「それは、……反射で動いてしまっただけで。でも、結局」
「藍染があそこで鬼道を撃つか刀を振るう可能性だって十分あったのに、貴方は私達に背を向けて立って下さった」
「…………」
「それだけで、私が感謝する理由には余りあります」

彼女は笑った。もう一度「ありがとうございました」と頭を下げた姿を見ながら、私は何を言うこともできずただぼんやり立ち尽くしていた。あの時彼らを庇うように立ち塞がったのは体が勝手に動いたからで、それ以外に大した思いなどなかった。助けなくちゃ、何とかしなくちゃ、と思ったけれど頭が空回りするばかりで、それに理由などなかった。感謝されることなど毛頭ないのに。

「あの、すみません。それだけなんですが、その。……お引き止めして申し訳ありません」

何の反応も示さない私が気分を害したと思ったのか、朽木さんがおろおろとし始める。先程までの凛とした姿勢はどうしたのだろう。言葉も歯切れが悪くなって、目線もくるくると動いている。ああ、彼女は本当に私に礼を伝えるためだけに私を引き止めてくれたのだ。その言葉は義理や上辺ではなく、心からのものなのだ。そう実感して、私は思わず笑みを零した。きっと、彼女を守りたかった人達はこんな気持ちだったのかもしれない。

「こちらこそ、有難うございます。何の役にも立たなかったけれど、そんな風に言ってもらえたら救われる」
「役に立たなかったなんてそんな!桜木谷殿がいなかったら一護が来る前にやられていました」
「そうでしょうか」
「そうです、絶対!」

一生懸命に彼女が力説してくれるから、その姿が微笑ましくて私はくすくす笑いながらもう一度「ありがとう」と呟く。朽木さんは安堵したように再び笑顔を浮かべた。養子とはいえ朽木家のお嬢さんなのに、くるくると表情が変わって愛らしい。そういえば、百年くらい前は朽木隊長も中々やんちゃなお子さんだったのに。思い出して、懐かしさに目を細める。変わってしまったように思っていたけれど、もしかしたら彼も本質は変わらないのだろうか。

「そろそろ執務室に戻らないと」
「すみません、長々とお時間をいただいてしまって」
「いえ。お話できて良かったです。本当に」

どれくらい時間が経ったか分からないけれど、忙しい中を抜けてきたのだからあまり時間を食うわけにはいかない。けれども彼女と話せて良かったと思うのは心からだった。胸に残っていた凝りが小さくなったように思った。それは間違いなく私にとっての救いだ。

「では、失礼します」
「はい。ありがとうございました!」

小さな彼女がまた大きく頭を下げてくれたので、それに会釈してから私は踵を返した。お礼を言いたいのは私の方だったけれど、きっとそうしたらお互いにお礼を言い合って何も進まない状態になりそうだ。たった数分の会話で彼女の人の良さを存分に知ったように思う。だから、役にたたなかったとは思うし今でもそれを悔いるけれど、あの時咄嗟に彼女と阿散井副隊長を守らなければと動けた自分に誇りを持てる。

『出発は恐らく二、三日後になります。それまでにもう少し人数を集めるつもりです』

先刻の阿散井副隊長の言葉を思い出す。これから隊舎に戻ったら、とりあえず檜佐木副隊長に報告をしなければならない。人員を削って申し訳ないけれど、きっと彼は快く送り出してくれるだろう。
私は拳を握った。開いたり握ったりを繰り返して、その感触を確かめる。

今度は、守らなければならない。足でまといになんてならない。絶対に。


prev next