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その感情の名は


放せ、と言われて素直に従う阿散井副隊長でないことくらい、彼は知っていたはずだった。阿散井副隊長は五番隊に所属していた時期があったし、隊長として皆に慕われていた彼は自隊の隊士以外との関わりも深かった。思慮深く穏やかで強くて、誰からも尊敬されていた。信頼されていた。

始解すらしない抜き身の刀で、阿散井副隊長は藍染隊長の攻撃を躱していた。私が巻き込まれることを考えてか、彼は飛び退るように私から離れた場所へ藍染隊長を誘導していく。私は地面に転がったまま、それを呆然と見ていた。何が起きているのか、未だ理解が追いついていない。わかるのは藍染隊長が、市丸隊長が、そして―――東仙隊長が、恐らく全てを握っているだろうということ。それが良いことではないだろうということ。

「……っ」

突き刺さった霊圧を解こうと身を捩ったけれど、上手く体が動かなかった。詠唱破棄とはいえ隊長格が放った鬼道の強さに畏怖を覚えて、内心舌打ちする。恐れている場合じゃない。目の前で戦っている彼を、助けなくちゃ。それは最早理屈ではなかった。思考を支配するのは本能的な何かだった。

阿散井副隊長の口から、雛森、吉良、とよく知った名が零れる。どうやら天挺空羅を使用した人がいたらしい。断片的に彼が話す内容に、私は目を開いた。ああ、と心の中で呟く。否定したかった全てが、肯定されてしまった。嘘であってほしいと思うことほどどうしようもなく真実なのは何故だろう。頭の中を混ぜ返されるような気分だった。

「吼えろ、蛇尾丸!」

少し遠くなった阿散井副隊長が始解する。この場所に現れたときから既にボロボロだった彼は、朽木さんを左手で抱えたまま右手一本で鋸のようなその刀を構えた。無茶だ、と思ったのは私だけではなかったと思う。朽木さんの目の色が絶望を映していて、私は縛られた腕に力を篭める。こんなところでこんなふうにぼんやりしている場合じゃない。助けなくちゃ。助けなくちゃ。

『すぐ戻ります』

あんなふうに見送るだけの自分はもう嫌だ。何も知らず何も出来ず、最後に結果だけ聞いて悲しむなんて二度と御免だった。なのに、体が動かない。こんなに近くにいるのに。結局何も出来ないままなのか。

阿散井副隊長が振るった刀を粉々に引き裂いて、藍染隊長は薄く笑った。肩から血が勢いよく吹き出して、堪えきれずに彼は膝をつく。スローモーションのように、藍染隊長が刀を振り上げた。離れた位置からでもそのぞっとするような瞳が見えた。

「……っやめ―――!」

やめて、と叫ぼうとした私の声を、ギィンと鈍い剣戟の音が弾く。大きく見開いた視界が、見覚えのない姿を映していた。思わず息を詰めた私の中で、冷静な私が呟く、「来てくれた」。真っ黒な死覇装をはためかせて、彼はそこに立っていた。鮮やかな萱草色に、私は目を細めた。

「手伝いに来てやったぜ、恋次」

そう言って笑う旅禍の姿は、思っていたよりも少し幼かった。話には聞いていたけれど、まだほんの少年なのだ。人間であの年頃ならば、まだほんの十数年しか生きていないのだろう。こちらで言えばそれは殆ど幼子に等しい。そんな子供が、刀を持って血に塗れながら戦っているのだと思うと少し胸が痛んだ。けれども、今はもう彼に縋るしかない。

硬直したように動かせなかった四肢に少しずつ力が戻ってくる。六杖光牢の力が弱まったのか、私の緊張が多少解れたのかは分からない。芋虫のように身を捩りながら私は刀を握り直す。
旅禍の少年がここにいるということは、彼は朽木隊長にすら打ち勝ったということだ。隊長格三人を一度に相手にするのは難しいだろうけれど、幸い市丸隊長も東仙隊長も動く様子はない。藍染隊長に任せるということなのだろう。隊長格を打ち負かす旅禍と副隊長一人、序でに囮要員で四席が一人居れば、何とか持ち堪えられるかもしれない。阿散井副隊長は誰かからの天挺空羅を聞いていた。それが彼一人に向けられたものとは考えにくい。時間を稼げばきっと他の隊長達がやってくる。

「―――行くぜ、蛇尾丸」

阿散井副隊長と旅禍の少年の二人が動いたのは同時だった。先程引きちぎられた斬魄刀が浮き上がる。全力を懸けているのだろう、凄まじい霊圧が辺りを渦巻いた。少し離れた私の位置から、市丸隊長と東仙隊長の二人の顔色が変わるのが見えた。行かなくちゃ。私は何とか膝をついて上半身を持ち上げる。砂まみれになった死覇装が白っぽく染まっていた。更に踏ん張って立ち上がろうと顔を上げた瞬間、それは動いた。

一瞬の出来事だ、と形容する他なかった。

「……え、」

瞬きをする間に、刀を構えた少年達は地を這っていた。おびただしい量の血が吹き出して、ぶわりと纏わりつくような鉄錆にも似た匂いに吐き気を覚える。大したことでもないというように平素と変わらぬ穏やかな表情の藍染隊長は、その血の海にただただ立っていた。彼の持っている刀から血が滴っているという光景が、何だかおかしいほど似つかわない。朽木さんの唇が、遠目に小さく動いた。声は聞こえなかった。

一拍遅れて心臓を鷲掴みにするような感覚が這い上がって、私は膝をついたまま動けなくなった。カタカタと馬鹿みたいに体が震え始める。握った斬魄刀を落とさないようにするのが精一杯だった。

阿散井副隊長の手を放れてぺたりと座り込んだ朽木さんに、藍染隊長がゆっくりと近づく。長い間殺気石に囲まれ霊圧を封じられていたせいか、彼女は指一本動かすことすら出来ないようだった。怪我の一つすらしていない私の体にも力が入らないのだから、恐ろしい程に大きな藍染隊長の霊圧に彼女があてられてしまうのも当然のことだった。首に付けられた紅色の拘束具に、彼の手が触れる。まるで物でも持ち上げるかのように、何気ない動作で朽木さんを引きずり起こした。

「可哀想に、まだ息があるのか」

藍染隊長から視線を逸らせなかった私は、彼のその一言でふっと目玉だけを横に動かす。倒れた旅禍は重傷だった。胴体を切り離す勢いで振られた藍染隊長の刀は、真っ直ぐ彼を裂いていた。今上下の体が繋がっているのは運が良かったと言うしかない。起き上がるなんてできるはずがなかった。それでも、少年は苦しそうに息を切らせながら手をついて藻掻いていた。藍染隊長は冷静に、良いじゃないか、なんて優しい言葉をのたまう。君達の役目は終わりだ、と。その響きが本当にいつもどおりで、こんなことをしている張本人の物だなんて思えないほどに、何の感情も見えない。

一際険しい顔になった旅禍に、藍染隊長は彼らが侵入してからの話を始めた。どこか遠くで聞いているような現実感のなさで、私はそれを受け止めていた。おかしい、おかしい、と思っていたことが暴かれていく。全て藍染隊長の意のままだったのだと、そんなふうに彼は静かに話す。驕っているわけでもなく、ただ単に事実を述べているだけだと言わんばかりの冷静な声音が、返って非現実感を増していた。

そして、唐突に零れたその名前に、私は呼吸を忘れた。

「君達は浦原喜助の命令で、朽木ルキアの奪還に来たんじゃないのか?」

心臓が大きくどくん、と鳴った。

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