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落下する人形


「……そうか、阿散井が」

九番隊に戻ってすぐ、私は檜佐木副隊長に大きく頭を下げた。待機を命じられていた四席が行き先も告げず勝手に外へ出ることなどあってはならないことだ。けれど彼は首を振ってそれを許してくれた。そして、何があったのか、と静かに尋ねた。

私の見てきたこと、感じたことを偽りなく話すと、檜佐木副隊長は考え込むように目を伏せた。そして、ご苦労だったな、と労ってくれた。私は返す言葉に詰まって、頭を振ることしか出来なかった。

「……気が乗らねぇな」

ぼそり、と最後に一言呟いた、檜佐木副隊長の声が聞こえた。

阿散井副隊長の敗北は班目さん以上に大きい。直にその情報は瀞霊廷内を巡るだろう。そうしたらもう、次に動くのは隊長格以外に有り得ない。旅禍はあの爆発的に霊圧の上がった瞬間だけを切り取れば、確かに阿散井副隊長を凌いでいた。けれど、やはり隊長格には届かない。十三人もの隊長一人にでも捕まれば、彼らの命はないだろう。

私は報告を終えて席に戻った。幸い檜佐木副隊長の言によれば、私の預かる班の待機命令はまだ解かれていないらしい。

「…………」

椅子に腰掛けると自然に息が漏れた。長く長く吐き出して、私は目を閉じる。

更木隊長の霊圧は感じない。班目さんから細かい情報を得ているはずの彼が、旅禍を見つけていないのは幸いと言うべきかもしれない。旅禍がもし彼と戦ってしまえば、結果は火を見るより明らかだ。例えばそれが東仙隊長や別の誰かなら、彼らの生存に望みも持てるのに。

「桜木谷四席」
「……っはい」

突然声を掛けられて、私はそれまでの疚しい想像をかき消す様に背筋を正した。私の座っている斜め後ろ、控え目に立っている彼はその反応に驚いたように肩を震わせて、それから目線を泳がせる。その手には、湯呑が載せられたお盆。

「あ、あの、すみません。よかったらお茶を、と思ったんですが」
「え、」

私はきょとんと瞬きをした。
考えてみれば、他の誰かにお茶を淹れてもらうということはこれまでほとんどなかった。持参した水筒を片手に仕事をする私は、下官の人達からすれば非常にお茶くみをしづらい上司だったに違いない。
差し出された湯呑を見てから、もう一度それを持っている彼に目を移す。相変わらず泳いでいるその視線と目は合わないけれど。

「ありがとう、ございます」

受け取ると、彼は嬉しそうに笑った。「こちらこそありがとうございます!」だなんてよく分からないことを言って頭を下げてくれたから、何だかおかしくて、ほんの少し頬が緩んだ。彼は一瞬固まって、すぐにわたわたとお盆を持っていなくなってしまった。

手にした湯呑は温かかったけれど、決して熱くはなかった。一口試しに飲んでみると、丁度飲みやすい温度に温めてあるようだった。先日の自分の失敗を省みながら、私はもう一口、とその温もりが喉を通る感触を楽しむ。

「…………」

暫くして、ふ、と口から息が漏れた。檜佐木副隊長から離れて席についた時と同じそれは、けれど全く違ったものに感じた。

未だ旅禍の目的は分からない。彼らは班目さんも阿散井副隊長も傷つけて、十一番隊を壊滅に追い込んで、それで何をしたいのだろう。もし、彼らの後ろにあの人がいるなら、彼は一体何を望んでいるのだろう。
お茶のお陰で少し落ち着いた心で私は思考する。

旅禍が朽木さんを助けに来たのだとして、ではその理由は何だろう。友情だろうか、恋情だろうか。朽木さんが行方不明になっていた期間は約二ヶ月。あの人は尸魂界がどんな場所か知っているのだから、命懸けであるということもわかっているはず。たった二ヶ月の感情のために命を掛けるのは浅いように思える。

ならば、と考えて、私は不意に髪に差した赤い花に触れた。

旅禍が朽木さんを目的とするなら、それには思いも寄らない理由があるのではないだろうか。彼女の処刑は異例だらけだ。何か大きな意志が働いているようにしか思えない。彼女が現世にいた二月という時間の間に、彼女は何かを手に入れたり、知ってしまったりしたのではないか。

「…………隊長、」

小さく零れた声は、きっと誰にも届かなかった。私は湯呑を手のひらで包んで目を伏せる。

もし旅禍の後ろにあの人がいるなら、朽木さんを中心に動くこの全ては彼に繋がるのではないだろうか。百年前、何も分からないまま無理矢理に終結させられてしまった出来事。私にこの花だけを残して、消えてしまったもの。それらが再び、動き出しているのではないだろうか。

『だぁーいじょうぶだいじょうぶ!』

これ以上ないほど呑気な声で、明るくそう言った彼の声が聞こえた気がした。すぐ戻ってきます、と。
すぐって、いつですか。もう百年も経ってしまいました。

私はずっとそのときを待っていた。けれど、待っても待ってもそれは訪れなかった。何も知らないまま、何も教えてもらえないまま、ただ残された時間を消化していくだけの人形。隊長も副隊長も、皆いなくなってしまった。

湯呑を包む手にぎゅ、と力を篭める。

もう二度と、何も知らないまま周りが傷ついていくのを見るのは嫌だった。

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