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それでも空は遠いと嘆くか



そのとき、私は九番隊の執務室にいた。そこには三席以下の何人かの席官しかおらず、隊長は留守、副隊長もどこかへ出かけているところだった。
旅禍が瀞霊廷内に侵入したという知らせからまだ然程時間は経っていない。花火のように弾け飛んだ光を見たと、誰かが興奮気味に話しているのは聞いたけれど、私は実際に見たわけではなかった。ただ、お祭りのように高揚とした空気を感じて半ば辟易していた。平隊士には現実感がないようだ。どういう手段を講じたのかは分からないが、既に彼らは市丸隊長を退けているのに。

「報告がある」

執務室の扉を開けて開口一番そう言ったのは檜佐木副隊長だった。そのよく通る低い声に身を強ばらせたのは私だけではなかったはずだ。眉間に皺を寄せたその表情は、焦っているようにも見えた。
室内にいたほぼ全員がびくりと肩を揺らしたのを見て、檜佐木副隊長は一度言葉を止めた。細い目でぐるりと室内を見回してから、声のトーンを下げる。

「……十一番隊班目三席と綾瀬川五席が旅禍と交戦し負傷した」
「!」

場の緊張感が一気に頂点に達した。
十一番隊は言わずと知れた戦闘集団、その三席が負傷となれば事は大きい。そして、檜佐木副隊長のこの話し方は恐らく。

「班目・綾瀬川両名は重傷。……旅禍は逃走している」

息を呑む音があちこちで聞かれた。班目三席に重傷を負わせた旅禍が野放しとなれば当然の話だった。私は汗ばんだ手のひらを握り込む。頭の芯にすっと氷を差し込まれたようだった。
それほどまでの相手だと想定していた者はいなかったはずだ。市丸隊長の手を逃れたとはいえ、奇跡やまぐれで済む話だときっと誰もが思っていた。そんな淡い期待を打ち砕く宣告のように聞こえた。

「他の被害はまだ報告されてねぇが、十一番隊はほぼ壊滅との情報もある」
「………」
「席官は各隊士に『絶対に一人になるな』と通達してくれ。隊務中は必ず五名以上でいること」
「はい!」
「何かあったらすぐに俺か隊長へ。捕まらない場合は五席以上で構わない。指示を仰ぐこと」
「はい!」

普段以上に一体感が増したようだった。檜佐木副隊長が細かく指示を出し終えると、各々指揮を執るべき班に伝達するため動き始める。部屋を出る者の合間を縫って、私は副隊長の元に駆け寄った。

「あの、」

声を上げると、人波に埋もれかかっていた私をすぐに副隊長が見つけてくれる。席官は男性が多い。並程度の身長の私ではすぐに埋もれる。ほんの少しの距離を掻き分けながら、私は彼を見上げた。

「班目三席の、容態は」

ああ、と心得たように檜佐木副隊長が頷く。

「重傷だが命に別状はないそうだ。…その、」
「……?」
「班目を負傷させた旅禍が、血止めを施したらしくて」

命に別状はない、の一言で、私の肩から力が抜けた。けれどもその後に続いた周りを憚るような小さな言葉に、大きく瞬きをする。言っている副隊長自身も意味がわからない風なのだから、私に納得がいくはずがない。

「本当に旅禍が?」
「ああ。……何考えてんだろうな」

ぽりぽりと頬を掻いて、檜佐木副隊長が息を吐いた。ここに至って、未だ彼らの目的は分かっていない。けれどもあんな派手な方法で瀞霊廷に侵入したのだ。こちらの応戦は当然の話。なのに彼らは、交戦した班目三席に止めを刺さないどころか治療まで行って、わざわざ逃げ去ったというのか。
私は眉を寄せて小さく目線を下げた。その理由を考えようと思ったけれど、やはり思い浮かばなかった。理解できないの一言に尽きる。けれど、それは間違いなく幸いだった。

「悪いけど桜木谷、ちょっと班目の様子見てきてくれるか」
「私がですか」
「三席はここに居てもらう。五席以下は指示を出しに回ってもらってる。お前がぱっと行って戻ってきてくれると助かる」
「……はい」
「ついでに旅禍の特徴やなんか知ってることがあれば聞いてきてくれ」
「かしこまりました」

頼んだぞ、と言われれば、断る理由などなかった。私はその心中を察して頭を下げる。小さく震える手は、握り締めたままだった。隠したかったのに、きっとバレてしまったのだろう。それ以上の動揺を悟られたくなくて、すぐに踵を返し部屋を出た。


***


四番隊の隊舎を私が訪れた回数は、そんなに多くない。ある程度の傷ならば自分で治せてしまうからだが、ある程度以上、重傷と言われる領域の怪我はここ百年していないというのがその理由の一つだった。故に、この場所を訪ねたのは数年ぶりだ。
恐る恐る総合救護詰所に足を踏み入れると、受付の隊士が笑顔を向けてくれる。班目三席の見舞いを、と告げると少し戸惑ったような顔で頷いた。その様子に首を傾げると、「先程まで涅隊長と更木隊長もいらしていたんです」と彼女は苦笑する。あと一歩早ければ鉢合わせたという事実にぞっとしながら、私は案内してくれるというその背を追いかけた。

「―――何だ、今度はお前かよ」

彼の第一声は素っ気無かった。「何だとはご挨拶ですね」と返せば、フンと顔を背けられてしまう。
考えてみれば、班目さんに会うのはあの日以来だった。背を向けて逃げ出したことを思い出すと合わせる顔がない。それでも、どうしても無事を確認したかった私の気持ちを檜佐木副隊長が汲んでくださったのだから、そんなことを言っている場合ではなかった。

「檜佐木副隊長に言われて参りました」
「……見ての通りだっての」
「次の瀞霊廷通信の特集は『旅禍と交戦し真っ先にやられた某十一番隊三席』で決まりですね」
「テメェ」

額に青筋を立てた班目さんが、睨みをきかせながらこちらを振り返った。やっとまともに顔を見ることができて私は息をつく。重傷、と聞いた瞬間は本当に肝が冷えた。―――こんな気持ちを味わいたくないから、誰とも関わらずにいようと思い続けていた百年間が懐かしい。
無事で良かった、と小さな声で呟くと、彼は再びそっぽを向いてしまった。

「じゃあ、私帰りますね」

苦笑しながら、私は寝台から一歩後退る。無事を確認してこい、という副隊長からの任務は達成した。あとは報告するだけだ。そう考えてから、もう一つ「ついでに」と頼まれていたことを思い出す。

「そうだ、班目さん。交戦した旅禍、どんな人でした?」
「……覚えてねぇよ」
「そんな一瞬でやられちゃったんですか」
「お前は見舞いに来たのか煽りに来たのかどっちだコラ」
「どちらでもないですよ」

涅隊長が来ていて更木隊長が来ていた、という話を聞いていたので、そう言うのかもしれないと思っていた。私は大して気にもせず、檜佐木副隊長にもそのままを伝えれば良いか、と考えながら踵を返そうとした。その瞬間だった。

「待て」

低い声で呼び止められて、私はぴくりと足を止めた。咄嗟にあの日の夕暮れを思い出して眉を顰める。このまま帰してくれればいいのに。直球しか投げられない彼にほんの少し嫌気が差す。
振り返ると、班目さんは真っ直ぐ私を見ていた。その強い視線と目が合って、今度は私が顔を背ける番だった。あの日逃げるしかなかった私には、未だ彼の視線を受け止めるだけの許容量がない。

「俺は交戦した旅禍のことは全く覚えちゃいねぇが、」
「……何の自慢ですか」
「いーから黙って聞け」
「…………」
「そいつは素人とは思えない体捌きと度胸で、俺に匹敵するレベルの戦いをした」
「…………」
「……聞いてんのかよ」
「黙って聞けって言ったじゃないですか」

目を逸らしたまま、私はぶっきらぼうに答えた。彼の話は先が見えなかった。何となく手持ち無沙汰になって、左手で右腕を抱く。
彼は少し言葉を止めてから、私の反発なんて気にせずに息を吸う。

「聞いたんだ。師は誰だ、と」
「……ここ何ヶ月かで死神になった元人間に師がいるとも思えませんが」
「俺もそう思ったさ。だがアイツはそんな風には思えないような戦いぶりを見せやがったんだ」

班目さんがふとこちらに向かって手を伸ばしたのが見えた。私は怪訝そうに眉を寄せて彼に近寄る。一歩、二歩。その手の届くところまで来た刹那、ぐっと死覇装の肩を掴まれた。体勢を崩しかけ慌てて寝台に手をつくと、彼は私の耳元近くに口を寄せる。そうして密やかな声ではっきりと言った。

「そいつの師は―――」

心臓が、どくんと大きく鳴った。

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