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ただ願わくば、


結局私が隊舎に辿り着いたのは正午を回ってからだった。午後からだと思えば少し早い到着だけれど、そもそもは朝からのはずだったと思えば遅すぎるほどだ。こんなふうに遅刻をするなんて、初めてだった。
小さく深呼吸してから扉を開くと、皆昼食で出かけているのか檜佐木副隊長しかいなかった。そういえば、元々東仙隊長は非番だったことを今更思い出す。隊長の机は綺麗に整頓されていて、代わりに副隊長の机は書類でいっぱいだった。

「お。桜木谷」

埋もれるように作業していた檜佐木副隊長が、軽く手を挙げる。もう大丈夫なのか?なんて台詞が思ったよりも能天気で、私は慌てて部屋に滑り込み後ろ手に扉を閉めた。

「…っご迷惑をおかけしました!」

勢いよく頭を下げる。まずは謝罪をしなければ、とここに来るまでの間ずっと考えていた。けれどもこの状態では長々と口上を述べる時間もない。檜佐木副隊長は「いいっていいって」とひらひら挙げた手を振った。多分、そう言ってくれるからと乱菊さんが言った言葉と全く同じ。私は有難いような申し訳ない気持ちで顰めた眉をそのままに、すぐ顔を上げた。

「……やります」
「あ?あー、別にこれお前のせいじゃねーよ?」
「でもやります」

よりにもよって隊長が非番の日に、何てことをしてしまったのだろう。隊長がやるべき仕事が副隊長に下りてくることは当然で、それを補佐するのが席官の役目で。三席がいたとはいえ、本来ならば私だって処理しなければならないものだったのだ。それを寝過ごした挙句副隊長の厚意で半休扱いにしていただいたなんてどうかしている。

「そうか?―――じゃあ、これとこれ、とりあえず頼む」
「はい」

檜佐木副隊長がいくつか選別して書類を渡してくれた。私はそれを受け取ってすぐさま自分の席に座る。難しい書類ではないが時間のかかる内容だった。この系統は割と得意だ―――もしかしたら彼は、私の得手不得手も考えてこれを回してくれたのかもしれない。書類に目を通しながら、頭の隅でそんなことを思った。

『あなたは部下に愛されてたのよ』

そんな風に言われたのは初めてだった。私は周りに無関心を貫いていたし、鏡のように私に跳ね返ってくるものもまた無関心だった。少なくとも、そう思っていた。今更そんなことを言われても信じる信じない以前にありえないし、ましてやそれを告げたのが上官とはいえ今まで話したこともない人間では尚更意味がわからなかった。けれど。

「お前酒弱かったんだな」
「……とても久しぶりに飲んだもので」
「しかも泣き上戸かよ」
「お恥ずかしいところをお見せしたのは謝罪しますので忘れてください」

斜め前の席で白い山に囲まれた副隊長がくつくつと笑う。それが揶揄ではない響きで、ほんの少し心地良い。小さく付け足された「無理すんなよ」という言葉に、私もまた小さく頷いた。
この人はその立場上か分からないが、思ったよりも周りを見ているのだろう。そしてその『周り』の中に私も含まれているのだ。上に立つ者として、彼は私の動きを私が気がつかないうちに観察している。書類の不得手や、任務の不得手も。

「次は桜木谷が翌日休みの時だな」

何の気なしに檜佐木副隊長が言ったので、私は顔を上げた。ついでに割と怪訝な「は?」という声も漏れた。眉を寄せる私の方には目も向けず、仕事を続けながら彼は笑っている。

「潰れても大丈夫な日にしとかねぇとまずいだろ」
「あの、何の話でしょうか」
「呑みの話」
「は?」

昨日の出来事だけでいっぱいいっぱいだった。次があるだなんて考えもしなかったし、もしあるならば遠慮したいところだ。イレギュラーに振り回されるのはもう御免だった。

「あの、すみませんが私は」
「は?何だよ、嫌か?」
「というか副隊長方が嫌でしょう」
「何でだよ。あんなの割とあることだぞ」
「(乱菊さんの話は本当だったのか…)」
「気にすんなよ。俺は楽しかったし」

まぁ無理にとは言わねぇけど、と彼は付け足した。その誘いが社交辞令なのか本物なのか、人と積極的に関わって来なかった私には計り知れない。思わず止めてしまった仕事の手を動かそうと意識しながら、心臓が大きく音を立てていた。相変わらず私は唐突に弱いのだ。何もかも想定したことすらなくて、対処法なんて思いつかない。途方に暮れるというのがまさに今の状態にぴったりだった。
社交辞令ならば適当にあしらったところで実際に誘いが来ることはもうないのだろう。けれど。

「……なら次は、私はお茶で」

これは期待なのかもしれない。理解できないことばかりで、なのにそれらが全て私にとって暖かなものばかりで、だから自惚れてしまったのかも。もう一度優しい言葉をもらえるのではないかと、そんなふうに。

檜佐木副隊長はきょとんと顔を上げた。その鋭い瞳と視線が合って、私はすぐに書類に目を戻す。やっぱり選択肢を間違えたか、なんて考え始める間もなく、一拍置いて彼は吹き出した。
ああ、何だかこんなふうに笑われてばっかりだ。

「何だよ、せっかく飲み会なんだから酒飲めよ」
「昨日の醜態は繰り返したくないので」
「気にすんなって!無礼講だろ無礼講」
「昨日の一回で十分です」
「酒飲まなきゃ飲み会じゃねぇじゃん」
「お茶も『飲む』と言うでしょう」

どくどくと高鳴る心臓を押さえるように、書類を押さえる左手に力を込めた。こんなふうに他人と関わるのはそれこそ百年振りだった。意図的に避けてきたものだ。失ったときのことを考えたら、どうしても踏み出せなかった。このままがいいと百年、そう思い続けてきたのに。
一度触れてしまえば、それは手放し難い温もりだった。そうなると分かっていたから無視し続けてきたのに、とうとう触れてしまった。そして。

そして私はやっぱり、それを手放せないのだ。

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