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ほんの、少しだけ


「っていうかあんた、一応先輩でしょ?その堅っ苦しい呼び方やめなさいよ」
「いえ。私は四席で、松本副隊長が副隊長なのに変わりありませんし」
「一角や阿散井だって名前で呼んでんだから。あんたも乱菊って呼びなさい!ね?」
「班目三席とはまた話がちが」
「呼ばなきゃ返事しないからね!」
「…………乱菊、さん」
「それでよし」

完全に主導権を握られた状態で、私は眉を下げた。こんなに困惑したのは昨日ぶりだ、と考えて、ほとんどそこから時間が経っていないことを思い出す。たった一晩の出来事なのに夢のように遠い。こうして松本副隊長―――乱菊さん、と話している現在ですら実感が沸かないのに。昨日までの毎日にこんな凹凸はなかった。
対する乱菊さんは楽しそうに「じゃああたしも香波って呼んじゃおっかなー」なんて鼻歌混じりに言っている。(そもそも乱菊さんが言い出したことなのに「じゃあ」って何だ。)

「あの、乱菊、さん」
「なに?」
「そろそろお暇します。仕度もあるから」
「ああ、そうねぇ」

乱菊さんが私の正面の壁を振り仰いで時計を見る。十一時になろうとしているその針を確認して、午後からだもんね、と頷いた。
午後から、というのは昼食を摂った後、午後の始業からという意味だ。檜佐木副隊長の厚意でそうしていただいているなら、なるべく早く向かいたい。午前中に終わらせるべきだった仕事は、まだ残っているだろうか。それとも誰か、肩代わりしてくれたのだろうか。申し訳なかった。

「本当にご迷惑おかけし……っ」

再び頭を下げた私の脳天を、ぺしっと乱菊さんが叩く。反射的に手で押さえて顔を上げると、むすっとした表情が目に入った。ああそうだ。謝るな、と言われたのだった。

「…………ありがとうございました」
「どういたしまして」

立ち上がって死覇装の裾を直す。乱菊さんは座ったまま、ひらひらと手を振った。それに一礼を返して、私は扉に手をかけた。引っかかりもせずにすんなり開いたその異世界からの出口を、潜ってそっと両手で閉めた。引き戸はあっさりと閉じ、けれど最後までその隙間からにこにこと手を振る乱菊さんが見えていた。

ふっと息をつく。
何もかもが現実離れしていて、理解が追いついていない感じがした。こんなの、夢ですら見たことがない。こんなはちゃめちゃで、五月蝿くて、賑やかな。

「…………」

誰も見ていない扉に向かってもう一度頭を下げて、私は早足で歩き始めた。
松本副隊長―――乱菊さんは十番隊。九番隊の私の部屋とは然程離れていない。急げばそんなに時間もかからないはずだ。そう気持ちが急いていた。
昨日からのイレギュラー続きで沸騰寸前だった私の頭は、近くの霊圧に気がつかなかった。

「!おっと」
「……あ!」

角を曲がってすぐ、誰かにぶつかって私は後ろに揺れた。倒れるまではいかずとも、大きく体勢を崩した私の手をその誰かが掴む。ぐい、と引き戻されれば視界の端にきらきらとした銀髪、そして白くはためく羽織。

「……っ申し訳ございません!」
「あー、いやいや。こちらこそすまない」

慌てて頭を下げると、浮竹隊長はそっと私の手を離してくれた。昨日今日とこのイベントの多発は何なのだろう。厄日なのか。それとも厄年なのか。混乱する私に、浮竹隊長はひたすら爽やかな笑みを向ける。

「久しぶりだね、桜木谷。こんなところでどうしたんだい?」

珍しい、と呟いた彼が本当に今の無礼を何とも思っていない風だったので、私は息をついた。元々そういう人だとは知っているけれど、隊長格との遭遇は心臓に悪い。

「松本……乱菊さんに、お世話になりまして」
「松本?そうかそうか」
「……浮竹隊長こそ、ここはまだ十番隊だったと思いますが」
「ああ、俺は冬獅郎に用があって」

浮竹隊長はにこにこと袂を指した。隊長が隊長を尋ねるとなると何か重要な案件が、とも思えたけれど、その表情からは全くそうとは思えなかった。そういえば、彼が日番谷隊長を猫可愛がりしているという話を聞いたことがある。これもその一環なのかもしれない。
私はそうですか、と息を吐くように相槌を打った。時間も気になるしこの場を早く離れようと、言いかけた「では」という言葉を浮竹隊長の指が遮る。長くて骨ばったそれが、私の頬に触れた。驚いて顔を上げると、彼は少し眉を顰めて私をじっと見ていた。

「……っ、あの」
「目元が少し腫れているね」
「……!」

原因が昨日の出来事だということは考えなくても理解できた。目が覚めてからも怒涛過ぎて、鏡を見ることなどなかった。念頭にもなかった。私が慌てて目元に触れると、浮竹隊長は小さく微笑んだ。その少しひんやりとした指が離れていく。

「いいものをあげよう」

袂をごそごそと探って、彼はひとつの小さな包を取り出した。手のひらよりももっと小さなそれは、薄い紙でくるまれていてほんのり中の桃色が透けている。浮竹隊長は私の手をとって開かせると、その包をそっと置いた。包と彼を見比べて、私は眉を下げる。

「あの、」
「甘いものは好きかい?」
「どちらかといえば好きですが」
「なら、是非食べてみてくれ。とても美味しいんだ」

皆に食べてもらおうと思ってたくさん持ってきたんだよ。そう言って彼は笑う。日番谷隊長にと持ってきたものでは、と言いかけた私の言葉すら、遮って飲み込ませてしまった。断る理由も思いつかず、失礼なく断れる言い訳も思いつかず、私は小さくお礼を言った。包を開くと、桃の花を象った干菓子がちょこんと乗っていた。
思わず、可愛い、と声が漏れる。再び隊長を見上げれば、にこにこと屈託のない笑顔が返ってきた。

「……いただきます」

食べてしまうのがほんの少し勿体無い、なんて思いながら、私はそれをつまみ上げた。小さなそれはたった一度で口の中に収まってしまう。瞬間、しゅわっと溶けるような甘さが広がって目を瞑った。甘味なんて暫く口にしていなかった。

「どうだい?」
「……美味しいです。とても」
「そうか、それは良かった」

もごもごと呟いているうちに、口の中の幸せはすっかり失くなってしまった。少々残念に思いながらも、私は口元を押さえて礼をする。

「ありがとうございました」
「いえいえ。美味しいと言ってもらえて、俺も嬉しかったよ」
「……では、私はこれで」
「うん。また」

浮竹隊長の手を振る姿をちらりと見て、私は廊下を再び歩き始めた。先程より少しだけゆっくりな速さで。

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