zzz


雨が止んだなら


あの人が居なくなったあの日。
空はどこまでも青く澄んでいて、溶けてしまいそうなほど綺麗で。このまま溶けてしまえばいいのにと思った。そうしたらもう、何も考えなくていいのに。寂しさも悔しさも何もかも、この気持ちさえ、消えてしまえば良かったのに。

『香波サン』

人は誰かを忘れていくとき、まず声から忘れていくのだと彼が言っていた。事実、貴方の声は私の中から少しずつ薄れていく。長い長い時間を経て、忘れてしまいたいと思いながら、それでも私は貴方の思い出を手放せない。するすると指の間から溢れていく貴方の声を、私を呼んだときの優しい音を、必死になって掬い続ける。

青い青い空を背にして、彼は行ってしまう。隊長の証である十二の文字を脱ぎ捨てて、ただの黒い死覇装のまま、足音さえ残さず。私はそれを追うこともできないまま、ただじっと見ていた。百年間幾度も繰り返された夢。いつだって私は、貴方を追いかけることができない。
さようならさえ言えずに、彼は空へ溶けてしまった。もう見えないその背中をずっと見つめていた私は、ふと足元に落ちる赤い花に気がつく。拾い上げると微かに、甘い匂いがした。隊長、と呟くと、返事のない変わりに花びらが小さく揺れた。

ああ、行ってしまったんだ。私はそれを潰さないように胸に抱きしめる。もう会えない。

「桜木谷」

名前を呼ばれて、私は目を開いた。目尻に溜まった涙が零れて、こめかみに伝った。
覗き込むように私を見下ろしていたのは松本副隊長だった。その翡翠色の瞳と視線が合って、私は目を細める。

「松本、副隊長」
「魘されてたようだったけど」

大丈夫?と聞く彼女は少し心配そうに眉を寄せていた。その後ろに見える天井は見慣れた木目で、青空なんかじゃない。やっぱり夢だった。私はそっと息をつく。
―――そして。

「いったぁ!!」
「………っ、すみませ…!」

勢いよく体を起こした私の額と覗き込んでいた松本副隊長の額がごちんとぶつかる。だだだだって!何で松本副隊長が私の部屋に…!!
涙目になりながら私は慌てて布団から出る。後退るように距離をとって、そこでようやくその場所が私の部屋でないことに気がついた。
同じ畳の部屋だけれど、ほとんど物のない私のそれと違い置いてある家具はしっかりとした造りでどこか艶がある。少し散らかっているけれど、決して汚いわけではなかった。私はきょろきょろと周りを見回して、困ったように彼女を見た。額を押さえながらいたたた、と呻いていた松本副隊長は、視線に気がついて顔を上げる。

「あたしの部屋よ」
「えっと…何で……」
「あんた昨日寝ちゃったでしょ?あの後連れて帰ってきたの」

溜息をついた松本副隊長に、私は昨晩の失態を思い出した。突然泣き出してしまったこと。しかもあろうことか、松本副隊長に抱かれたまま泣き疲れて寝てしまったこと。ぼんやりとしか思い出せないけれど、間違いなくあれは失態だった。慌ててきちんとその場に座り直し、私は大きく頭を下げる。

「申し訳ありませんでした!」

ご迷惑をおかけしたのが他隊の副隊長だなんて言い訳の余地もない。どんな叱責でも受ける覚悟で目を閉じた。正直、殴られても文句は言えないと思っていた。
一拍おいて、松本副隊長はけらけらと笑い出す。

「あーいいのいいの。そんな大げさなもんじゃないわよ」
「しかし」
「あたしもよく酔いつぶれて隊長に怒られてるし」

困惑して顔を上げると、本当に全く気にしていない様子で彼女はひらひら手を振った。私はどう返したら良いか分からず目を逸らす。

「あんたが寝ちゃった後大騒ぎだったのよー」

笑い話ついでに、松本副隊長が教えてくれた。
あの後寝てしまった私をどうするかで、彼らは少し揉めたらしい。檜佐木副隊長は自分の隊の四席だし自分が連れてきたのだから、と私を連れて帰ってくれようとしたそうだが、それを松本副隊長が止めた。檜佐木副隊長の案は隊の休憩室に寝かしておけば、というものだったようだが、酔いつぶれて寝てしまっている女の子を一晩人目のない休憩室に置いておくのは危ない、と。
ならば本人の部屋に連れていけば、と彼は言ってくれたそうだが、女の子の部屋に本人の同意なく勝手に入るのは如何なものか、とこれも松本副隊長に却下され。
それもそうだよなぁ、と頷いた阿散井副隊長に、じゃあどうするんだよ、と班目三席。四番隊に預かってもらいましょうか、と第三者的意見を出してくれたのは吉良副隊長だったそうだ。(ちなみにここで班目三席はそのへんに転がしとけよ、と言って松本副隊長にぶん殴られているらしい)
そこで最終的に妥協案として、「なら女のあたしが自分の部屋に連れていけばいいか」となったらしい。

「ちなみに、ここまで抱えて連れてきてくれたのは修兵だから安心してね」

何に対して安心したら良いのかはさっぱりわからない。
混乱する頭を深呼吸して落ち着けながら、私はもう一度すみませんでした、と頭を下げた。よしなさいな、と笑ってくれる松本副隊長の目は優しくて、それが決して私に気を遣っているというわけではないのだと思えた。謝るなと言われてしまえば、他に言葉も浮かばず私は暫く口を噤んだ。不自然な沈黙が降りる。

「そういえば、あんた今日仕事なんだって?」
「!」

思い出したように松本副隊長が言って、更に頭が真っ白になった。
慌てて思い出せば、今日は休日でも何でもなくて、今の今まで寝ていた私は一体どれほど遅れてしまっているのか。弾かれたように部屋を見回せば、壁に掛かった時計が10時を少し回ったところだった。慌てて立ち上がると、目の前の彼女はまぁまぁ、なんてのんびり手を振る。座れという仕草のようだった。

「どうせ起きないだろうし、無理に起こすのも可哀想だから午後からにしとくって修兵が」
「檜佐木、副隊長が?」
「責任感じてたみたいよー。流石に四席を突然非番にはできなかったみたいだけど」
「………」
「まぁ最初に連れてこいって言っちゃったのあたしなんだけど」

気が抜けて、思わず指示通り座り込んだ。松本副隊長は、少し困ったようにごめんね、と呟いた。

「十番隊であんたの話を聞いてから、ずっと話してみたかったのよ」
「そう、ですか」
「ホーラ!そんな顔しないでこっち向きなさい!」

ぐいっと両頬を挟まれて上を向かせられる。特に俯いていたつもりもなかったが、目線は確かに下を向いていた。それを無理に上げられて、宝石のような瞳と視線が合う。驚いて瞬くと、彼女は小さく笑った。

「あたしが入隊してきた当初はまだ、十番隊はあんたの話で持ちきりだったのよ」
「……は?」
「有能な三席だったって評判だったの。あんたの部下は皆あんたを慕ってた」

相当惜しまれてたのよ、なんて冗談混じりに言う彼女の表情は、先程と変わらず優しかった。その優しさが自分に向いているのだという意味も理由も分からず、私はただただ戸惑っていた。そもそも、そんな話聞いたこともない。

「あんたにそのつもりがなくても、あんたは部下を気遣っていたし部下はそれをちゃーんと気付いてたってことよ」
「私は、……ただ自分の仕事にしか興味がありませんでした、けど」
「的確な判断と指示で、あんたが指揮を執った任務は殉職率0でしょ?」
「それは、私が死にたくないからで」
「でもあんたはその為に、味方を犠牲になんてしなかった」

自分が生き残る為に他人を犠牲にするなんて、そんな目覚めの悪いことを好き好んでする人間がいるとも思えなかった。私は腑に落ちず、かと言って真っ向から否定する言葉も浮かばず、唇を引き結んだ。心臓の音が聞こえる。訳がわからなかった。今まで話もしたことがなかった人間が、こんな穏やかな視線を向けてこんな暖かい言葉をくれる。否定する言葉ばかりを向けられて生活してきたわけではないけれど、私は周りに無関心だった。当然、無関心な人間に向けられるのは無関心で。それが当たり前だし望んだことだったのに。

「あんたは愛されてたのよ、十番隊に」

咄嗟に、否定しなければと思った。そんなはずがないのだ。私は自分が死にたくないから少しでも分の悪い賭けに挑みたくなかっただけで、慎重だったのではない、臆病だったのだ。それは十一番隊にいた頃と同様、貶されこそすれ褒められることではないのだと自分でも理解していた。彼のいない百年間を生きていた私がたった一つ望むことが自分の生で、その為に私はどんな手段でも使おうと思っていた。味方を犠牲にしなかったのはそれをすれば目覚めが悪いと知っていただけで、最悪の場合にもしなかったかと聞かれればそんなこと分からない。
口を開きかけて、言葉が浮かばずに再び噤んだ。何か言わなければ、と思ったけれど、どんな言葉でも言ってしまえば何かが崩れてしまう気がした。今までそっと積み上げてきたもの。壊れては困るもの。

ああ、きっと。私は百年を生きてきたのではなくて、ただ時計を止めてしまっただけなのかもしれない。

握った手のひらに薄く汗が滲んでいるのを感じた。零れないように零れないように。私は強く力を込める。やっと思いついた言葉を口にしようとした時には、既に喉はカラカラに乾いていた。

「ありがとう、ございます」


prev next