特効薬L

初めて会ったときから、誰の目でもなくその頭上の、空を見る目が不快だった。

おれたちシャーロット家の人間に、婚姻の自由はない。恋愛なぞは初めからする気もないが、ママが決めた相手には例えどれほどの醜女だろうと性悪だろうと、イエスと答えて連れ添わねばならない。もちろんそれは形式上の話だ。ママ自身を見ていれば、夫婦の在り方などさして重要でことは簡単に分かる。だが先に結婚している兄弟たちは、そうは見えなかった。記憶にはママが自分の実の父親と夫婦をしている姿さえ欠片もないのに、どこで覚えられるのかはたまた相手が良いのか、兄弟たちはとても幸せそうに見えた。兄弟で完結していた自分に、それはひどく不思議に思えたものだ。今は、納得は出来ずとも理解はできるようになった、つもりでいる。代わりのきく息子の1人でも、大勢の兄弟の中の1人でもない自分というものが、夫婦という関係にはあるらしい。幸せそうな兄弟を見る度に苦々しく感じるのは、ただの僻みだろうか、それとも兄弟を盗られた妬みだろうか。どちらにせよひどく子どもっぽい感情から来ることは確かで、誰にも伝えたことは無かったが。

連れてこられた女は、醜女でも性悪でもなかったが、強いて言えば白痴のようだった。ママは無茶苦茶なことをする肝の据わったところが気に入ったと話していたが、そんな様子は微塵もなく、へらりと笑った顔には野心どころか畏怖も見受けられない。何より、何もかも諦めたみたいな冷めた瞳は、まずおれではなくおれの頭上の中空を見た。すぐに逸らされたが、その後も目が合うことはなくて、へらへらと薄っぺらい作り笑いで結婚式から今日まで。

「ダイフク様」
「…なんだ」
「…今日は、早く帰ってきてくださいませんか」
「…!なんだ、何かあるのか」
「いえ…いえ、何も」

初めておれの目を見て喋る、ナマエは何かに焦っていた。怯えてもいた。お前おれの名前を知ってたのかと皮肉の一つでもくれてやろうと思ったのに、ナマエはひどく弱弱しい表情をしていた。いつもだらりと下がっていた腕は、今日は強く自分の服の裾を掴んでいた。おれを、というより何かを求める言葉も初めて聞いた。嫁いできたときから物に頓着しない女だったのだ。その振る舞いからすると不自然なほどの対応の違いに、思わず尋ね返す。だが返ってきたのは動揺ではなく、泣き出しそうな表情と、引き下がる言葉だけだった。

仕事へ行っても手につかない。朝の妻の姿と表情と声色が、ぐるぐる頭を巡っている。あんな表情をする女ではなかった。どちらかと言えば、不遜に近い振る舞いだった。おれに対してだってママに対してだって、特段怯えたりはしなかったのだ。まるで四皇を相手取っても死ぬことなどないと、そういう表情に見えた。だからその恐れを知らぬ振る舞いを、白痴だと感じたのだ。何を欲しがるでもなく、なのに死なない自信だけやけに爛々とさせていて。今さら恐怖が追いついたとでも?今さら?…怖い夢でもみたか?…これは妹たちがそうだっただけか。そんなくだらないことでおれにそばに居て欲しがるような女ではない。…そばに居て欲しいという意味だよな?何か裏があると考えるのが妥当だ。おれを殺そうと考えているなら怯えているのも分からんでもないが…だがそれなら、動き出しが謎すぎる。これまで手を出してこなかったのも謎だし、疑われないよう良き妻の演技をしていたわけでもないのだから。まず殺せるとも思わないがな。気づけば正午過ぎ、気分転換に飯でも食いに行くかと席を立った。書類はちっとも進んじゃいねえ。

仕事が手につかないほど気になるなら帰ればいい、というのが食後落ち着いた頭が出した結論だった。急いでいる件があるわけでもなし、妻に企みがあるのなら早めに対処する方が良いに決まっている。そうでないのなら…このそうでない場合が思いつかなくて午前を潰したわけだが、まあ、大した事態じゃあるまい。家には使用人も居る、危険物でも持ち込もうものならおれの耳に入らないわけがない。戸を鳴らすが当のナマエの姿が見えない。近くのメイドに声を掛けると、朝から部屋に閉じこもっているという。とりあえずソファに座っていると、ナマエが階段を駆け下りてきた。

「…な…なにかお忘れですか…?」
「…お前が、早く帰ってこいって言ったんだろうが」

何がしたいのか、というか何を考えているのか分からなかったから黙って座っていたら、気を利かせたメイドがお茶にしましょうと声を掛けてきた。ナマエが立ち上がり、メイドに二、三言告げてキッチンへ向かう。紅茶を淹れる音と、かちゃかちゃと皿のぶつかる音。しばらくして、ナマエはなぜか神妙な顔をして紅茶とお菓子を運んできた。毒でも仕込んだのだろうか?キッチンには他の使用人も居ただろうし、その程度の量では腹もくださないだろうなと思いつつその動きを眺める。ナマエは無言でおれの隣に座った。無言で紅茶を口に運ぶ。おれもそれにならう。特に異物は入ってなさそうだ、と思いながら無言でいる。何か考えているのか、どことなくもじもじした雰囲気と、落ち着かないティーカップに添えられた指。皿を割ったことを隠している妹の姿を彷彿とさせた。

「ダイフク様」
「…なんだ」
「ダイフク様は…そうだなあ…海王類の上だけを渡って島から島へ移動しようとか考えたことありますか?」
「なんだそりゃ…ねえよ、無理だしな」
「ええ、あの時は流石に焦りましたねぇ」
「やったのかァ!?」

皿を割ることなんか比べ物にならないくらい無茶だった。なんの文脈も無い語り出しは非常に突拍子もない話で、しかも実体験だと?悪魔の実を食った身としては考えるだけでゾッとする、っていうかやったのかよお前。無茶苦茶だ。今までとはまるで別人のようにするすると言葉が投げかけられて、それがあまりにもな内容だからスルーも出来ずに返してしまう。初めて聞くナマエがここに嫁ぐ前の話は本当に無茶無謀な冒険譚で、海賊にだって、というかむしろ海賊には出来ないような真似もほいほい出てきた。まるでどこかで聞いたような肝の据わった…ああ違う、コイツの話だ。ママが言っていた、ミョウジ・ナマエという女の話。馬鹿じゃねえのかというのが正直な感想で、でもそれを聞いたナマエはですよねーと言ってケラケラ笑った。本当に別人のようで、ただ、戸惑う。ママの話を考えればこれが本当のナマエだ。でも、それじゃあ今までの期間は一体なんだったってんだ。それを尋ねてやりたいが、ナマエの話は堰を切ったように止まらない。ついでに悔しいくらい面白い。これは悔しい。かと思えば魔人を見たいだなんて全くもって今さらなことをねだってきて、言う通りにすればキャッキャと笑う。魔人に放り投げられて天井で頭を打って、それで腹を抱えて笑っている。いつも黙っているか時間が違った夕食中だってお喋りは止まらず、まるでこれまで口を縫い合わされていたようだ。そろそろ慣れたいがまだまだ突っ込みどころしかない話ばかりで、可笑しくて、悔しい。風呂に入って暫し状況を整理していたが、あがってきたナマエの寝間着がおかしなことになっていて、そういえばいつも就寝時間が合わないから指摘しなかったなということを改めて教えてやった。顔を真っ赤にしてベッドを転げまわるナマエはそれでも楽しそうで。時折鏡に視線をやってはまたお喋りを始める。鏡を覗いても、おれとナマエが写っているだけだ。またナマエが鏡を覗いた。一瞬なにか物悲しそうな表情をして、目を閉じて、こちらへ向き直って。

「ダイフクさま」
「なんだ?」
「…んー…キス、してほしいです」

今日はつくづく突拍子もない。思わず固まる、が、別にその程度のことで動揺する必要はないのだった。妻だからな。そうだ、おれは動揺なんかこれっぽっちもしちゃいない。あれだけ喋り倒していたのに急に静かになったから、そりゃ心音も響いて聞こえるというものだ。むしろナマエの音かもしれない。どういう企みがあるんだろうと、そのくらいのことしてやる。もしこれで毒を盛ろうだとか考えていたとして、ならばおれはコイツを殺さなくちゃならない。それならば別に、最後くらい。その程度のキスだった。触れただけの。どうしてそんな泣きそうな顔をしているんだ。首を振って、弱弱しく笑って。首を傾けて鏡を見たナマエは。

「はん!?」
「…今度はなんだ」
「えっ?な、あ、あ、ん?」

アホみたいな声を出していた。鏡を指さし、挙動不審だ。今のキスで何が起きるっていうんだ?ついには呆然とベッドに座り直し、青ざめていた顔が一気に赤く染まる。潤んだ瞳が何故か今さら動揺を込めてこちらを見上げる。…あー…これは、我慢の限界、だな。

「…おれはてっきり、お前はおれと結婚したのが不満だったんだと」
「あ…あ、あ、お、あ、う…?」
「…求めてくれて、嬉しい」

押し倒すその瞬間も、ナマエは鏡を見ていた。今はアホみたいに真っ赤な顔の自分しか見えないと思うが、まァそれもすぐ気にならなくなんだろ。おれは今、やっと夫婦になれてすこぶる気分が良い。





「そういう!!!!?」

一緒に朝食を摂るようになって暫くしたある朝、起きてきたナマエはまた鏡を見て、そして叫んだ。普段は不思議そうに首をかしげるだけだったので思わず顔を上げる。もうそろそろ脈絡のない行動には慣れたが、今日のは一段と訳が分からないな。

「なんだァ?自分の顔がアイランドクジラにでも見えるのか」
「違いますー!じゃない!見てくださいよこれ!ここ!!」

ガツガツと、ナマエの腹あたりの鏡の表面を指さしているが、おれには何も見えない。ナマエの腹が写ってるだけだ。太ったって話か?

「なんだよ」
「だからこの数字ってそういう…アッ…」

数字ィ?ナマエは何故か1人で顔を真っ赤にしているし、おれの嫁は今日も絶好調らしい。



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