延命措置

物心ついたときから、わたしには他の人に見えないものが見える。
って言うと大概は死んだ人の幽霊を思い浮かべるのだろうが残念ながら違う。そんな儲かりそうな能力ではない。わたしに見えるのは、人間の頭上で絶え間なく減り続ける数字だ。
わたしには、人の寿命が見える。

初めてそれが何なのか知ったとき、そしてそれが他人には見えないのだと知ったとき、それは祖父が餅をのどに詰まらせて死んだときである。おじいちゃん、数字がぜろになるよと言おうとした瞬間の出来事であった。まあビビった。そりゃそうだ。それから暫くは他人と会うのが怖かったし、鏡を見るのも怯えたし、いっそ目を抉り出そうとさえした。でも見えちゃうものは仕方ないし、しかも自分の寿命分かるし、それまでは死なないから無茶が出来るなと思い直した。幸か不幸か、わたしの寿命は花盛りの時分で散りそうである。親は悲しむだろうが概ね良い感じです。わたしは天命を全うすることにした。あとそれとなく金儲けに使おうと思った。これまで生きてきて分かったことは、この時間は必ずしも正確ではないということである。正確でないというか、たまにズレる。昨日あと数時間だなあと思って眺めていた近所のおばあちゃんが今朝孫と一緒に散歩をしていたりする。数字は数十時間ほど巻き戻っている。まあでも、大体の人の時間は正確だった。

そして、そんなわたしの時間はもうすぐ終わる。その時まではと我ながら無茶無謀をしたけど、まさか海賊に嫁ぐことになるとは思わなんだ。能力のことは言ってないけど、言ったところで頭がおかしいと思われるだけなんだろうなと思う。たぶん、そういう人だ。あんまりよく知らないけど。夫婦になったものの、わたしはもうすぐ死ぬという自覚があったのであんまり仲を深める気にならなかった。まことに身勝手な話だけれども、向こうだって仲を深めてすぐ死なれるよりよく分からないまま死んでいったほうが後腐れなくていいと思う。うん。幸い夫は海賊でありながらなんか…なんとか大臣…豆?豆かなんかの大臣だったので、家にはあんまりいない。わたしにもそんなに興味がないようだ。ザ・政略結婚のこれぞ仮面夫婦みたいな感じ。仮面被ってさえないかも。まあ、なにはともあれわたしは残り少ない寿命をただ静かに過ごすことで減らしていった。結局寿命が変わるメカニズムも分からず仕舞いだ。もしも延ばせるならと思ってしまうけれど、世の中そう上手くはいかないらしい。

「ダイフク様」
「…なんだ」
「…今日は、早く帰ってきてくださいませんか」
「…!なんだ、何かあるのか」
「いえ…いえ、何も」

何十年前から分かっていたことだとしても、悟りきったと思っていても、やっぱり死ぬのは怖かった。1人で死ぬのは、もっと、本当に怖かった。その数字が一日をきったとき、突然実感が降ってわいた。怖かった。これまで形式的な会話しかしてこなかった夫に柄でもない我儘を言ってしまうほどには怖かった。遠くにいる父や母にはもう会えない。間に合わない。奇しくも今自分に一番身近なのは、この人だった。でも何だと尋ねられると何も返せなくて、まして今日死ぬのでなんて言えるわけもなく、わたしは首を振った。この人にとってわたしは他人なのだ。わたしが選んだことだ。わたしだって、この人としか呼べない相手なのだから。大きな背中を見送って、わたしは部屋で泣いた。流石に泣いた。誰も悪くなくて、強いて言うならわたしが悪くて、気を利かせて早々に遺品整理を終わらせてしまったせいですることがなくて、ただ死ぬことへの恐怖だけが胸を占めた。最期の日に何をしたいかなんて人生を掛けた計画は、その日がくれば何も手に着かなかった。ばかみたい。

ガタンと戸の鳴る音で目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだった。もう帰宅の時間かと驚いて窓を見たが、まだ日は高い。昼食は食べ逃したが、夕食はまだ遠そうだった。

「…な…なにかお忘れですか…?」
「…お前が、早く帰ってこいって言ったんだろうが」

その返答に仰天する。いくらなんでも早すぎる。都合がついて夕暮れ時、くらいに思っていたのにまだ午後のお茶の時間である。大臣の仕事ってそんなにどうとでもなるもんなのか。仕事の融通にも、夫がわたしのために融通を通したことにも驚いたけれど、その驚きは恐怖を少しだけ薄めてくれた。わたしは夫のためにお茶の準備をした。給仕の申し出は断った。最期だから、何かしてみたかった。と言ってもお茶を淹れてお菓子を並べただけだけど。夫は黙ってそれを見ていた。ソファに並んで座る。お菓子を食べる。お茶を啜る。無言で時間が過ぎていく。それでも、1人で過ごすよりずっと気持ちは楽だった。夫のことも見直した。もっと早く声を掛けてみても良かったなあ。あと少ししかないけど、まだ遅くないかなあ。

「ダイフク様」
「…なんだ」
「ダイフク様は…そうだなあ…海王類の上だけを渡って島から島へ移動しようとか考えたことありますか?」
「なんだそりゃ…ねえよ、無理だしな」
「ええ、あの時は流石に焦りましたねぇ」
「やったのかァ!?」

わたしの馬鹿みたいな無茶の話をして呆れられたり、魔人を出すのをねだってみたり、くだらない時間が過ぎていく。くだらなくて、少し温かい時間が。ダイフク様は話しかけたらにべもなく会話を終わらせたりしないで、ちゃんと返事をしてくれる。知らなかった。そりゃそうだ、これまでわたしが歩み寄らなかったのだから。ばかだなあ。会話をしながら摂る夕食は美味しい。寝巻の着方がおかしいことを、指摘されて初めて気づいた。それはもっと早く知りたかった。ばかだなあ。時間が減っていく。

「ダイフクさま」
「なんだ?」
「…んー…キス、してほしいです」

お恥ずかしながら、わたしは最期の最後でそんなことに憧れていた。所詮わたしもただの女の子なのだった。夫が動揺しているのは空気で十分わかっていたし、今更会話をしたところで他人には変わりないから大変申し訳ない申し出なのだけど、どうせ死ぬなら恥もへったくれもないなと思って。昨日まで会話も碌にしなかった妻にキスなんかねだられたら、わたしだったら毒でも盛ろうとしてんじゃないかと思っちゃうな。暫しの逡巡のあと、そっと、唇が重なった。ひどく繊細なキスだった。泣きたくなった。もっと早く知っておけば良かった。もっと早く。もう時間はないのに、今更、ばかみたい。寝室の鏡へ視線を向ける。わたしの数字は、あとー…。

「はん!?」
「…今度はなんだ」
「えっ?な、あ、あ、ん?」

数字が増えていた。ごっそり一日分、増えていた。なぜだか分からない。お風呂に入る前は、もう残りわずかだったのに。訳が分からない。ベッドを抜け出して鏡をしげしげと眺めるが、数字は変わらない。鏡だから反転してるとかそういうのもない。数字が、増えている。夫に訝しげな顔で見られているがそれでどころでは、いや、ん?ああ!わたしはもう死ぬつもりで、今日一日振る舞った。我儘も言った。恥ずかしいおねだりもした。だってわたしに明日は無かったから。でもある。あるわ。わたし、明日、あるわ。呆然とベッドに座る。徐々に顔が熱くなる。たかが一日とは言えど、わたしは明日目が覚めて、夫にどんな顔をすればいいの?とっ、と影に覆われる。思わず見上げると、もう一度唇から熱が移った。

「…おれはてっきり、お前はおれと結婚したのが不満だったんだと」
「あ…あ、あ、お、あ、う…?」
「…求めてくれて、嬉しい」

どさり、重力に従う直前、鏡の中の数字が増える気配がした。
ど、どっひゃー!



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