ひどいミントのにおいがした。 


 ぼくにとっては何事でもない。ぼくにとってはもう、大概のことが何事でもない。退屈な作り話を垂れ流して赤ら顔の酒瓶に人生哲学の云々を学ぶ、愚かな、愚かな、愚かな。酸いも甘いも噛み分ける鋭利な犬歯で穴をあけた価値観のなか、何かと入れ替わるように流れ出していく青い春の感傷たちの答えを、まるで最初から無かった事のように失っていきながら。 
 犬の真似をする電車が自分の尻尾を一日中追い掛けつづける。夢見がちなフランス映画の結末だけ繰り返す特注の夢製造機のプロセスの中、すみれの香りの一部になる花奈がもうしばらくはぼくたちのいる階段の下にはやってこないことを確信する。「出る杭は打たれるのさ。知ってるだろう?」 、律太が返事をしないのを特に気にすることもなく、ぼくはじっと、部屋の片隅の、何も映っていないテレビの画面を見つめている。脳内の重箱の隅をつつく神経質な指摘たちがその軌道でサイケデリックな模様を描いている。 

 忘れたい記憶がやがて忘れたことも忘れてしまうので最初からなかったのと同じになる。そういうふうにして地球の自転や宇宙の増幅や世界の振れ幅はバランスを保つ。ぼくも、律太も、花奈も、みんなそうやって。 
 だから誰も悪いことはしていないし、ママに怒られたり、パパに叩かれたりすることもない。 


「馬鹿だな。10年よりももっと前から引きずってる」 
「そうだね。でも誰もそれを笑ったりできない」 
「ところが、笑ってしまえるんだ。俺やおまえや花奈や、それと似たような人たち、――とは違うような構造の人たちには、それができてしまう」 
「まるで異国の人間だね」 
「もしかすると異国の人間なのは俺たちの方かもしれない。出る杭は打たれるんだ。知ってるだろう?」 
「知ってるよ。ぼくらはそうやってここから出られない。――素敵な言い訳だよね、そう思わない?」 


 ぼくは立ち上がった。相変わらずひどいミントのにおいがして、それはそのような言葉を辞書で引いたかのような、一寸のずれもない正確な「ひどいミントのにおい」が漂っているかのようだった。ぼくはこのにおいの正体を知っている。どうしてこのにおいがこうしてこの家の空気の中で酸素や窒素と踊りながら微睡んでいるのかも知っている。律太はそれについて知らなくて、でも、花奈はとてもよく知っていた。 


「――ぼくはね、ぼくはもういいんだ。ぼく自身はもう何でもいい。でも、誰にももう絶対に花奈を悲しませたり、苦しませたり、傷つけたりさせないよ。絶対にね」 


 性悪説をいじりまわして喜ぶこどもじみた癖は結局治らない。世界にはびこる善良な決まりごとを最も愛せない悲しい動物。べっこう飴が溶ける記憶の一室で、それでもいつまでも捻れた優越感や妄執に肩まで漬かっていい匂いのする悪意の塊と一緒になって溶けているわけにはいかないのだ。 


「…美しい愛だな。花奈はぼくが守る、と言いたいのか」 
「ぼくだけしか悲しませたり、苦しませたり、傷つけたりできないようにしたい。――そういう理由かもよ」 
「ああ、そうかもな」 


 全然信じていないといったふうに律太が言った。信じられても困るのでぼくは特に言葉を継ぎ足すことをしなかった。窓から空を覗き見上げると、緑色のパラシュート部隊がゆらゆらと大げさな慣性の法則の中で自由落下を続けているところだった。向かいの電波塔のてっぺん近くの小部屋の中で、見知った顔が研ぎ澄まされた精度でライフル銃のスコープを覗いてそのうちのひとつのパラシュートを狙っているのが見えた。爪の手前で二股に別れた人差し指が窮屈そうに引き金に引っかかって、仮にその銃が暴発する未来を意味もなく夢想しては楽しんでいるのをしばらく眺めたあとに、やがて階上で花奈が眠りから覚める物音がしたので、ぼくはさっさと首を引っ込めた。 


「ユートピア、ね」 


 今さっき見た光景を報告しようと口を開いたぼくより先に律太が特に感情もなく呟いたので、ぼくはそのまま出かかった言葉を舌で愛撫してもう一度飲み込んだ。「――リッタ?ルート?そこにいるの?」、精神異常の天使が鈴をめちゃくちゃに踏み躙るような美しくてか細くて繊細で不穏な花奈の声が背後から忍び寄ってぼくの背筋を伝って落ちた。律太の右目の青い花はとっくに枯れて彼の水晶体に新しい種を埋め込んで死んでいた。ぼくは裂けた薬指の付け根を誤魔化さなければならなかった。「隆人」「いいよ。大丈夫」 



 ぼくにとってはもう大概のことが何事でもない。ぼくは花奈を失いたくなかった。それだけだった。




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(110629)



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